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インタビュータイトル

Interview 津田清和「ガラスと器と探究心」 3/6

聞き手:山本忠臣「ギャラリーやまほん」オーナー / 文・構成:竹内典子 / Jun. 2013

応援してくれる人

山本 卯辰山の頃は、もう結婚していたのですか?

津田 その前に、諏訪へ行く頃に結婚しました。嫁とは最初のガラス教室で知り合ったんですけど、彼女は芸術大学の建築学科出身で、僕よりも博学でしたから助けられましたね。彼女から人への伝え方とかプレゼンテーションとかいろいろ教わったので、それがなければ卯辰山にも受かってなかったと思います。

山本 すごく応援してくれますよね。津田君が挑戦的な作品をつくった時とか、ちょっと売れないかなという弱気な感じでも、奥さんは全然動じないし、ちゃんと尻叩いてくれる(笑)。

津田 勘所がいいというか、ここはやらんでもいいとか、これはやるべき仕事とかいうことが、彼女はわかるんですね。

僕は手の込んだ仕事も好きだけど、一方でざっくりとした仕事も好きなんですよね。ただ、そういう仕事はいいものをつくっている人がいはるんで、そこを嫁は俯瞰して見てくれていて、僕も言ってくれへんかったらわからない時もあったから(笑)。

山本 文献以外では、どんな書物を読んでいましたか。

津田 『23人のつくったやさしい雑貨たち』(日本放送出版協会)という本を嫁が持っていて、よく読みました。そこには今ご活躍されている作家さんの作品が紹介されていて、つくり手それぞれのエッセンスとなる言葉が散りばめられていました。そういうものを読んで僕も励みにしていたんですけど、中でも木工の三谷龍二さんの言葉が理路整然としていて共感する部分が多かったですね。

「富山ガラス工房」で働いて得たもの

山本 卯辰山を出てからは、どうされましたか。

津田 自分の吹きガラス工房をつくる、そのための資金を貯めないといけないので、卒業後は「富山ガラス工房」というところに、スタッフとして就職して3年間働きました。

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山本 そこでは量産品をつくっていたのですか。

津田 富山市が運営しているところだったので、市内の企業から注文をもらって、コップとかノベルティとかをつくっていました。大まかに打ち合わせして、こちらからデザイン案を出すんですけど、ほぼデザインは決まっていて、それが通れば300個とか400個つくるので職人仕事に近いですね。上手な人はもっとすごい数をつくっていました。

山本 量産の技術を学んだわけですね。

津田 そうです。同じ形をひたすらつくるし、出来栄えがよくないと撥ね品として返ってくる。厳しい分、僕にとっては良い経験でした。

山本 技術の基盤はそこで得たということですか。

津田 確実にそうですね。そこは実践的につくれる人でないとやっていけないので、僕よりも技術的に上手な人が2~3人いましたし、その人たちから学んだり盗んだりしながらやっていました。もともと富山ガラス工房は、隣接する富山ガラス研究所を出た人が入る、限定の職場だったんですけど、僕が入る2年前くらいからその研究所出身者以外の人も入れるようになったんです。

山本 富山は盛んだった織物が衰退してきたので、ガラスを産業としてやっていこうというプロジェクトもあって、ガラスに力を入れていますね。

津田 そうなんです。富山にガラスの美術館をつくるというプロジェクトも進んでいます。

山本 自分の作品づくりはどうされていたのですか。

津田 クラフトコンペに何回か出しましたね。何かつながるかなと思って。全くでしたけど(笑)。

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山本 あとは自分の工房を持つしかない(笑)。

津田 ガラスをやって10年目だったので、次にどこでやるという選択肢ももうなかったですし、自分で工房をやろうと腹をくくりました。それで場所を探して、今の奈良県葛城市に工房を持ちました。

津田清和 硝子への眼差し

津田清和 硝子への眼差し

2013/6/8(土)〜7/21(日)
@ギャラリーやまほん

会期中休廊日 火曜日
回廊時間 11:00 - 17:30

gallery yamahon
518-1325 三重県伊賀市丸柱1650
tel/fax 0595-44-1911
http://www.gallery-yamahon.com/