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パノラマ対談「器と花」 熊谷幸治 × 上野雄次:前編

パノラマ対談「器と花」 熊谷幸治 × 上野雄次


文・構成:竹内典子 / Aug. 2015

土を焼いたり焼かなかったり。熊谷幸治さんの物作りは、器になることだけに留まらない。土そのものとの向き合い方とか、縄文人に対する興味とか、自らの感覚の中で疑問や解釈に揺さぶられながら、創造性をみつめている。上野雄次さんは、その方向性にすばやく反応して、想いの向かう先を探り出し、ピタッと花を生けてしまう。二人の間にある本質的な感受性が、「造形」という形あるものに行き着く時、自然の摂理すら生き生きと感じられる。

土器に花を生ける

熊谷 素朴な疑問ですけれど、上野さんが器に花を生ける時というのは、器と花のどちらを重視するのでしょうか?

上野 花重視で生ける時ももちろんありますが、今回は器重視です。パノラマの仕事は、まず作家さんがいて、提示された器などがあって、それに僕が最後の味付けをして行くみたいなことです。基本は、生み出された造形とか、テクスチャーとか、そういうものを生かそうというイメージで取り組んでいます。花の量感も極力少ない方がいいと思っています。

熊谷 そうなのですね。

上野 見た瞬間に、量感の多い方に、見る側の意識は引っ張られますよね。例えば、コーヒーカップにちょこんと花を生けたら、量感の多いカップの方に意識は向くし、カップから溢れんばかりに花を生けたら、花重視になり始める。1対1の瞬間もあります。

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熊谷 僕の作るものには、形が割れているとか、ひび割れのある器とかありますが、それは生けてみていかがでしたか。

上野 割れているものは、まず置いてみて、割れている造形がスリリングに見える場所を探します。花を置く置かないは別にして、まずそこを考える。この器が面白く見える場所はどこなのか、器を回転させたり、僕が動いて目線を上げたり下げたりしながら決めるんですね。そこを見定めてから、最終的に花はいったいどこに置こうかと。横から写真に写す時、俯瞰から写す時、それぞれにポイントがあって、それに照らして花を置いて行きます。 例えば、ひび割れのある器を俯瞰で見たら、ひび割れの流れが美しい。辿って行ったらどこも美しいけれど、花を置くならここという場所がある。ひびが止まっている所は、ひびのエンドでありスタートでもあり、すごく重要なポイントだから、そこに花を置いて隠すべきではないだろうとか。

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熊谷 なるほど。

上野 花を落とす場所によって、ひび割れと一体化して蔓性の植物のように見えるポイントもあります。そういうイメージを重ねながら、ちょうどいい花の大きさを決めます。花が大きいとひび割れすら消してしまうから、ここは小さいハルジオンの花にしようとか。
やっぱり、器との出会いを楽しんで、いい関係になりたいから、相手が喜ぶことをまず考えたい。この器のこんなところに個性があるんだなって、僕が素直に面白いと思ったところに目を向けて、そこを妨げないように何をやるべきかを考えます。

熊谷 僕の場合は、妨げないようにとか、何もそういう対象がないまま、割と無意識に手が動いているような気がします。どこで手を止めるか、ということには結構意識はハッキリしているのですけれど。

上野 スタートの動機は、土とは何かをというところで始まっていると思うし、無意識に手を動かしていると言っても、結局は生理がすべてを動かしているだろうし。絶対に無視していないこととして、土の性質・本質みたいなものに嘘をつきたくないというところはあるでしょう。

熊谷 そうですね。そういう感じでやっていると、何か起こるんですよね。

上野 マテリアルに対する誠実さみたいなものなのかな。僕の場合は、そこもあるけれど、器を作った人の意志もあるということです。

熊谷 花を置くポイントを見定めるには、ほかにどういうことを考えますか?

上野 器の重心が、形においてどう移動していったか、そこを読み解いていきます。どういう方向に向かったのか、今どういう流れが生まれているか。その中で面白いポイント、ストーリーのクライマックスやアクセントになるところを見定めると、そこが花を置く場所になっていきます。ストーリーの流れは見た瞬間に人は感じることだから、流れて行く側に花を置く。花は植物の中でエネルギーの強い瞬間でもあるので、器との接点とか、エネルギーの溜まるところに、花というエネルギーの高いものを合わせると、誰が見ても花はここだよねという場所になる。それは重心がどこに流れているかということを、みんな自然に見てわかっているからなんですね。そういう場所に花をあてがってあげるんです。

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熊谷 そうやって生けていくわけですか。

上野 今回のように器に生ける時は、もうそれしか読んでないです。まず、この器と仲良くできなければ、納得してもらえないでしょう。仲良くなるためには、器の美しいポイントとか、いろんな個性が生まれてくる特徴的な場所を拾い込む作業をしないと。あとは光との関係性も強いですね。植物というのは光を求めて生長していくので、そこに植物の美しさもあって、器の向きと植物の向きを素直に組み合わせてあげる必要性があります。

熊谷 全然知らないことなので聞いてしまいますが、「生ける」とは、どういうものでしょうか?

上野 分解して考えると、活き活きと見えるように仕立てるということかな。どんな形を生み出すと「生けた」ということになるのかというと、重力に抗い出した瞬間に生きているということを、形の上で理解することにつながってきます。横に寝ているのが死んでいるという形だとして、いちばん簡単に生きている形を表現するなら、死の真逆で、真直ぐに立つことが、生きていることの最初の基準値です。
土の場合の生きているという感覚は、どこら辺でしょうか。

熊谷 土には粘りがあるんですね。昔からよく言われているのは、土はあまり触ると粘りがなくなるということ。作るためには触らないとならないので矛盾しているけれど、あまり触らない方がいいんです。お鮨に近いというか、あまり触っているとネタが傷んでしまう。だから、轆轤はいちばん土に向いていて、実際に数秒の作業で一気に形を作れるので、土の活きがいいという状態ですね。そういう意味では、僕も瞬間芸的なものの方が好きですし、向いているのかもしれません。ただ、それは訓練していないと、逆にいちばん難しいことでもあります。

上野 土の粘りというのは、ベースが鉱物だから、不純物とか微生物とかが粘りを生み出してくれているわけでしょう。

熊谷 実は、なぜ粘っているのかは、まだ最終的な解明はされていないそうです。触ると元気がなくなるけれど、練るとよかったりもするし、扱いがよくわからない不思議な物というか。

上野 わかっていないんですか。

熊谷 普通の陶磁器は窯で焼くので徐々に温度を上げていくことが出来るんです。ところが、土器の野焼きとなると、いきなり直火で焼くから爆ぜるんですね。それが土の問題であることはわかっていて、爆ぜるのも水蒸気爆発と言われているので、基本的には土に砂を入れて、空気が抜けやすい状態にすると、爆発しにくくなるとされています。ところが、それが全く関係ない、割と肌理が細かくて、粘りも強いのに、直火に入れても爆ぜない土が存在するんですよね。

上野 面白いですね。

熊谷 もう、何が何だかよくわからない(笑)。ただ、一つ言えるのは、土を精製するとだいたい爆ぜる。売っている土はほぼダメだということです。僕の経験則として、掘った土は結構大丈夫。掘ったばかりの土はしっとりしていて、そのまま水で練って形を作って焼くと、野焼きしてもあまり爆ぜないんですね。でも、その土を一度乾かして、粉にしてから練ると、さほど変わらないはずなのに爆ぜたりする。そこは本当に謎です。

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上野 なぜなんだろう。それはとても興味深い話です。

熊谷 器作りについて言うと、土は内側から轆轤で膨らませられるので、風船を膨らませるような、内から外へ向かう力が、印象として出ていると思うんです。だから、器を作る時には、容れ物なので、内部の空気感を、空気の流れを意識して作った方がいいんです。例えば、壺だったら口があるので、そこをどう留めてどういう空気を出すか。内から出て来るものを、最後どう出しているか、ということを意識して作って行くと、かなり印象は変わります。壺の口からポッと開いている感じとか。

上野 エネルギーの伝達の軌跡として形が生まれてくる。ということで言うなら、この素材に対しては、ここでエネルギーを留めたけれど、それは最終的にはどこかへ分散されて行くもの。口の広がった平茶碗なら、ふわ~っと水平に広がって行く空気を描くかもしれないし、口元をちょっと戻したような器なら、そのまま丸く描くようになるのかもしれない。

熊谷 その最後の口の部分で、器はほぼ決まってしまいますから。

上野 器という実体と、実体でない空気との接点、そこが何ともエロティックな場所だと思いますね。

熊谷 そうなんです。だから、口元の処理を野暮ったくしたくない。なめし皮で挟んで滑らかにするのも、僕は本当はやりたくないので、ほんのちょっと当てる程度です。

焼いていない土で形をつくる

熊谷 今日は初めて、生土のまま焼いていない器というものに、花を生けてもらいましたけれど、いかがでしたか? 花器らしい花器ではないですし、焼き物のように引っかかるところがないので、むずかしいかなという気もしていたのですが。

上野 そんなことはなくて、焼き物の器より、ずっと自由度は高いですよ。普通の花器は、水を入れて、そこに生けるということになりますけれど、生土の場合は、水を入れるわけではないので、例えば器の横から挿すことができますよね。隙間があるような器だったら、その隙間の外側と内側のところで、光と影の織り成す空間的クライマックスが生じた時に、そこに対して自由に花をあてがうことだってできます。

熊谷 小さいオレンジ色の蔓の花を、器の隙間に入れたり、器の向きを変えて横から挿したりしたものですね。

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上野 そうです。生土で、しかも立ち上がったハッキリした造形物として存在していたから、単純に花を生けるという根本的なバランスとフィットしやすかったですね。 それと生土の素材感というところでは、濡れ感があるだけで、植物との相性はすごくいい。お互いに水分を持って濡れているものでもあるから、よりリアリティがあって馴染みがいいものになるなと思いました。

熊谷 単純にきれいだなと思うことにも、訳はあるんですね。

上野 必ず訳はありますね。今日もやりましたけれど、何かにつけて擬人化して物を見るというのも、人間の癖の一つ。その癖にのっとって、擬人化できるポイントがあれば、キャラクターを生み出すことで、さらに人の興味を引き出すことができます。今日みたいに栗で顔に仕立てたのも、器の形が腰に手を当てた人に見えたからです。

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熊谷 他にも、まだ器になる以前の土や、土を水で溶いた泥の上にも花を生けてもらいました。

上野 熊谷さんが土を広げて山にしてくれたけれど、あの瞬間からもう造形は始まっています。重力に抗い始めた時からが造形だから。

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熊谷 いろいろやっている内に「焼かなくてもいいかな」という思いが強く出て来るようになったというか。僕はもともと用途のあるものより、土器が好きで始めたということもあって、「焼く」ということが、果たしてそれほど大事なことなのかと考えるんです。彫刻の場合は同じように立体形をつくって表現するけれど、素材にしばられないわけで、そう考えると「焼く」ということがネックになるというか。もちろん、焼くことで堅牢になって水にも溶けなくなって、道具として使えるようになるんだけれど、表現に関していえば、使えなくてもいいわけで。

上野 それは生業として成立させるタイミングに、焼いた状態で持って行くか、持って行かないかという話ですよね。お金に換えて手渡すものというのは、ある程度、価値判断がはっきりしていて、値段が付いているとか、共通の了解を得られる基準値みたいなものが必要になってくるわけです。いわゆるライブパフォーマンスとかの括りであれば、時間の中で充足感をどれくらい得られるか、形に残らなくてもその場で見せて提案して行くことで、お金に換えて行くことはできる。でも、それはある程度の時間をかけて、このライブパフォーマンスには価値があるよと理解してもらえるまでやり続けた、見せ続けた結果、成り立つことなのだと思います。

熊谷 なるほど。

上野 物を買って得るよりも、もしかしたらアートパフォーマンスに触れることによって得られる大きなイマジネーションの方が、総量としては大きいかもしれない。でも、人によっては全く何の意味もなくて、価値の低いものなのかもしれない。だから、生業としては難しいから焼かざるを得ないというか。でも、焼かないことに伝えるべきものがあるならば、それに価値を付けていけばいい。何回も打ち続けて、価値があるということを、言うだけじゃなくてちゃんとイメージを手渡せるようにしていけばいいんじゃないですか。僕の花生けも、その最たるものです。形に残るものはお客さんに手渡せないんだから(笑)。

熊谷 写真にはきれいに残っても、それが全てではないですよね。

上野 花を仕上げていくスピードとか、僕が判断して行く背景とかは、写真では絶対にわからない。ライブパフォーマンスでないと伝わらないところです。

熊谷 今日は上野さんと一緒にやってみて、「焼く」ということから離れると、いろいろと可能性はありそうだなと思いました。その辺りに、自分の溜まっている思いもあるようです。

上野 それは、自然とそうなりますよ。生の土とつきあっていたら、すごく気持ちいいわけで、手の触感で得られる実感みたいなものは、やっぱり生土の状態の時でしょう。最高のリアリティがある。手で感じながら形作って行くなんて、すごくエロティックじゃないですか。

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熊谷 そうなんです。彫刻家は抜きにして、焼き物屋さんくらいしか、その楽しさをやっちゃいけないみたいな。その焼き物屋さんも、焼くことでごまかしているようなところもあるというか。でも僕は気付いたことを伝えたいという思いもあって、今回は上野さんとそこの辺りを少しでもやれたらなと思っていたんです。

上野 どんどんやったらいいと思いますよ。

熊谷 焼いていない物は手渡せないし、その場で終わってしまうものだから、そこをどうお金に換えて活動につなげて行くか、そこは課題です。

上野 こういうのは精神を伝えるものだから。焼いた作品に作家のどんな思いがのっかっているのか、という背景づくりみたいなところがあると思います。

熊谷 そこをちゃんと伝えられたら面白いはずですよね。

上野 僕は、作家の足腰の部分だと思う。そういうところを見続けて来た人なのかどうか、後から出て来るんだろうと。器に振って行くイメージの総量みたいなものというか。だいたい、僕が最初に買った熊谷さんの作品は、足なのか土の塊なのかわからないものだからね(笑)。しかも5万円くらいしたはず(笑)。だから、あれを買う時に何を見ていたかと言うと、「この方向性を応援したい」っていうことだったと思います。自分もクリエーションする人間として、創造性みたいなものに向かっている人間を応援する立場でいられたらいいし、それはライバルとして刺激を与えてくれる人が増えた方が、本当の意味での自分の成長にもつながりますから。

熊谷 今回のパノラマの撮影も、そういうところを見てもらえたらなと。

上野 それはあるでしょう。作家の誠実さとかイマジネーションの深さとか、今後どれだけイメージが飛躍して行くかとか、人は常に見ています。そういう意味では、焼いていない土の仕事を見せつけるというのは、すごく必要なことだろうと思います。そういう中で、創造や好奇心に満ち溢れた作家の思いを、すくうような見方をしてくれる人が増えると楽しいだろうし。

熊谷 生土の器に花を生けてもらってみて、焼いていない土で形をつくることによって、まだまだ発見できることがあるなと思いました。

上野 焼いていないものであっても、「器と花」、「器を作る人と花を生ける人」には、共通のテーマがあると思います。造形物であるということにおいてはお互いにそうだから、造形として人が首を縦に振ってくれるものを作って行く。きれいだなと思ってもらえるもの、きれいでなくてもすごいなとか、興奮してもらえるようなものに向かって行く意志みたいなものは、お互いに定着している必要性はありますね。

縄文土器に想うこと

熊谷 土器を作っていた縄文の人たちのことをよく考えるんですけれど、おそらく子どもの頃から相当な数を作っていて、焼いていない物もすごくたくさんあったという気がするんです。そこが、僕は気になっているんですね。今の時代、僕の同業の人たちは、作ったものを全部焼くわけじゃないですか。でも、土でいろいろ作る中には焼かない物と、焼いて器にする物と両方あっていいんじゃないかと僕は思うんです。そういう感じで僕もやって行けたら自然なんじゃないかと。

上野 とても自然なことだと思いますよ。

熊谷 それで先ほども話したことですけれど、道具として使えなくてもいいものは、表現した造形のまま焼かなくて済みます。逆に言うと、食器のように日常の道具として使うものに、自己表現をどう入れ込むかというのは、すごく難しいんです。

上野 日常器、生活器というのは、コミュニティバランスを守りながら生きて行くことに、すごく近いような気がします。人間は一人で生きていけないから、仲間とか町とか人とのつながりを大事にして、お互いの約束事とかを守りながら仲良く暮らしていく。一方で、それぞれに個性があって、そこを生かす柔らかい情緒のバランスがないと人間は生きていけない。生殖が生き物にとっての最高の存在理由だとして、オーガズムの瞬間は生きて行く状態の限界値であり、いちばん生きている実感を得られる時でもあるわけでしょう。その瞬間ばかり日常に持ち込んでいたら、命を縮めるしかなくなってくる。だから、両方があってこそ、人間は生きているということでもあるし、日常器を作るということは、コミュニティバランスを守りながら生きるってことなんじゃないかな。

熊谷 なるほど。

上野 昔はコミュニティの中にお祭りがあって、ハレの日とケの日をはっきり分けていたから、両方をバランスよく守りながら生きていたのでしょう。限界に挑戦するとか、生きているギリギリを見つめていくとかいうのは、オーガズムの瞬間を別な行為によって得ようとしているのだと思うし、両方あって人間的な行為だし、個性みたいなものを消化する先にも成り得ますよね。

熊谷 それが普通に健康的なことだとしたら、今は両方の人が少ないんじゃないかな。

上野 それはもう現代社会の問題ですね。

熊谷 でも、作り手側から始めていかないといけないんじゃないかと。コミュニティバランスを取るためのものと、純粋な表現の両方をやっていけたら、その問題の何かを解決できるかもしれないですし。

上野 そこは根気強く闘い続けるしかないでしょうね。やり方はいろいろあるだろうし、例えば、エッセンスとして、オーソドックスなものに落とし込んでいくことだってできると思います。魯山人の作品に、器形は普通なのに、外側から見込みを覗いた瞬間に、椿の絵の描く独特な世界観が迫ってくるものがあります。器の形を劇場空間として見て、そこに色を落として行く、絵を落として行く。そうやって美の官能みたいなものをエッセンスとして落として行くことはできると思うんです。全体像では、形はオーソドックスで使いやすいところを押さえつつ、あるポイントだけギューンと突き抜けているような。

熊谷 その点では、縄文だけは、道具と表現が完全に融合しているんですよね。表現と言っても、宗教的な表現ですけれど。僕は、縄文土器というのは、それ一つで用途を分けずに全ての用途に使っていたという説を考えています。鍋にしたり、貯蔵に使ったり、さらに宗教観的なものも込めているので、極端な言い方をすれば、鍋=神みたいな同時感覚があるんです。シンボリックなものと日用品が融合しているというか。考古学的には、道具か、祭器かで二分化されているけれど、僕としては完全に融合していると感じていて。

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上野 それは面白いですね。

熊谷 縄文土器は、たいてい上部は残っていても、底部は抜けた状態なんですね。底部は意図的に壊されていると言われています。弥生土器にも穴が開いていて、よく骨が入っているんですが、僕は縄文土器は煮炊きに使ったり、貯蔵に使ったり、祭器に使ったりしながら、最後は骨を入れて墓にしたのではないかと考えています。そうやって人が生まれてから死ぬまで、いろんなこと全てに使っていたんじゃないかって。

上野 それが今の時代とは違うリアリティだったということですね。

熊谷 いつか僕も、これぞという全てをテンコ盛りにしたものを作りたいし、縄文をやる以上はそういうものだと思っています。僕は継承というよりは、縄文人のノリにとにかく惹かれているところがあって、たぶんそこが今の時代に難しいところでもあるんです。

上野 縄文に関しては、僕も持論があって、話してもいいですか(笑)。それは、何故に「火炎土器」という名称なのかということ。誰かがそういうイマジネーションで見て呼んだだけの話で、縄文人が火炎土器と呼んでいたわけではないでしょう。これは本当に火のイメージなのか、というところから僕は疑っている。確かにそう見えるのはわかるけれど、薪で焚火をすると、炎って立ち上がる時に上に向かって広がったりしないんです。円錐形にしか立ち上がっていかない。それなのに、縄文土器は逆三角形に立ち上がっていて、あれを火炎土器と呼ぶのは不自然に思います。

熊谷 なるほど。

上野 一つ、自分なりの答えがあって、あれは倒木した木の根っこだったんじゃないかと。

熊谷 つまり、ひっくり返っているということですか?

上野 そうです。根っこというのは、ものにもよるけれど、渦巻いたり、螺旋状に広がったりしていくんですね。それで、ひっくり返ったら、根っこはそこから上に向かって広がりますから、逆三角形になる。重力に抗った、非常に力強い造形です。
山に入ると、枯れて倒木した木というのは結構あります。幹の部分はすぐに腐るし虫食いしやすい。幹のように空気の中に生きているものは、あまりストレスなく健やかに育つけれど、土の中の根っこは強烈なストレスの中で育つから生長が遅く、身も詰まっているから簡単に虫も食わなくて残りやすい。それで幹は腐って、根っこの部分だけの状態で山にある。その根っこを逆さに置いたら、むちゃくちゃ格好いいですからね。もしかしたら、ここにイメージの源泉があったのではないか、というのが持論です。

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熊谷 僕もいろいろ調べていますけれど、その説は初めて聞きました。

上野 どこにも書いていないことです。誰かが火炎土器と呼び出した段階で、ある程度イメージは限定されてしまいますから。でも、渦巻きとか、それをシンメトリーに面々と作って行くとか、上に向かって行く力とか、もし自分自身の精神性が高まって作るとしたら、こういう方向性にならざるを得ないんじゃないかなと思うわけです。

熊谷 植物と向き合う人の意見という気がして、すごく面白いですね。

上野 僕が植物に対する意識が強いからというだけではなくて、当時の人の暮らし、生きているロケーションを想像してみると、まだ畑を耕す生活ではなかったから、森の中で生きていたわけでしょう。そうすると、常に倒木した木とか根っことか、そういう造形を目にしていることになる。今、僕が山に入っても思うんだけれど、倒木した木の根っこを見ると、すごいな、力強いなと惹きつけられる。根っこは生長スピードが遅いから、ちょっとの幅のものにも、すごい時間の経過が詰まっているというか。大きな根っこだったら、かなりの巨木の時間の経過が詰まっているわけで。そういうものに、自然と説得されていくんじゃないですか。
というのは、僕の一つの解釈だけれど、でも、こういうふうに解釈を進めていったら、どこまでも自由になれるはずなんですね。

熊谷 それは本当に、縄文マニアの僕からすると、とても新しいです。

上野 結局、捉え方とかイメージの源泉とか自分たちが生きている中で得られる実感、面白いと思えるものというのは、たぶん昔から感覚的には大きく変わっていないはずです。基点をどこまで掘り下げてオリジナルのイマジネーションをもつか、それが縄文とつながった瞬間に感じるものによって、そこに新たなアプローチを加えていく意欲も生まれて来るんだと思います。熊谷さんオリジナルの縄文解釈というものができるだろうし、それを再現することや、今の技術でもっとすごいものを作れる可能性だってあるわけです。

熊谷 そうやって自分で判断していくということが大事ですね。
今日はいろいろな発見もあって、とても面白かったです。どうも有り難うございました。

上野 こちらこそ、有難うございました。