Interview 升 たか「苔むさない生き方、描き方」 前編 3/3
聞き手:広瀬一郎さん(「桃居」オーナー) / 文・構成:竹内典子 / Jul. 2014
再びイラストレーターに
広瀬 その後、京都から東京へ。基本的な立ち位置としては、イラストレーションの世界で勝負していくというお気持ちでしたか。
升 そうです。再び東京へ戻ってきた時は、32歳くらいで、また一から出直しでしたけれど、 そういう思いはありました。ほかに自分が稼げるものはないし、アメリカで自分の苔落しはできたので、もう一度、自分のイラストレーションをやってみたいと。その時は時代も少し落ち着いていましたし。
広瀬 ちょうど80年代を迎えた辺りで、まだまだ日本の経済全体のパイは大きくなっていた時代。広告や出版という産業にも勢いがあったから、当然、新しいイラストレーションに対する需要もありましたよね。そういう時代の空気の中で、仕事を始められたわけですね。
升 もちろん常々、時代を読んでいたわけでも感じていたわけでもないんですけれど、たまたま時代の温度が下がっていなかったんです。
広瀬 僕の記憶では、80年代前半は、いわゆる横文字職業にスポットライトが当たって、フォトグラファーとか、コピーライターとか、イラストレーターもそうですよね。それまで表現のマージナルなところにいた人たちが、真ん中に出てきた時代。
升 60年代、70年代に言われていた反体制とかアンダーグラウンドとかアウトサイダーとかいう言葉は消えていました。その頃からでしょうね、時代のコントラストがぼやけてきたのは。だんだんフラットになって来ていたという気がします。僕らの若い頃の対立的な考え方、体制と反体制みたいなものは、どこかに消え失せて、フラットになってきて、その温度がだんだん上がってきていたという感じです。
広瀬 ある種の面白主義というか、セゾン的なる広告表現とか、そういうものが時代を引っ張っていて。時代の格好よさとか気持ちよさというものが焦点になるような時代でした。イラストレーションも仕事として見ると、とても面白い時代で、いろんな冒険ができたのではないでしょうか。
升 アメリカンスタイルは通用しなくなっていましたし、僕はとにかく自分のスタイルをどう確立するかということだけでした。それを何とかできてから、だんだんと露出度が高くなってきて、雑誌媒体や広告媒体が花盛りの時代だったので、また寝る間もないくらい忙しくなりました。
広瀬 イラストレーターを始めた大阪時代と似たような状況になったわけですね。
升 そうです。でも、大阪時代と違って、イラストレーションをアメリカンスタイルとか何とかではなくて、いちばん自分らしいスタイルで押し通してできた時代だったから、やっていて苦痛はなかったし、楽しかったです。ただ、それも10年以上20年近くやっていると疲れてきてしまって。イラストレーションというのは、物を売るための援護射撃のようなものですから、消えて行く仕事なんですね。空砲を撃つようなもので。
広瀬 充実感はあるけれども、虚しさもあって、それを抱えながら仕事をされていたわけですか。
升 そうですね。僕の中でのイラストレーションは、表現ではないんです。外からの求めに応じて、自分のスタイルで描くということであって。だから、面白さというのは、スタイルが確立された瞬間から、仕事としての引きずり方しかできなくなっていくというか。
広瀬 そういうモヤモヤみたいなものが、また生まれてきたのが90年代半ばくらいですか。僕は98年頃に、升さんと初めてお会いしたんですけれど、その時、升さんは50歳くらいでしたから。
升 そうかもしれないですね。
広瀬 それまでやってきた広告、エディトリアルでのイラストレーションの仕事に対して、自分の中での飽和したものがあって、次にどこか出口を探さないと、という感じだったのでしょうか。
升 日本の経済は少しずつ雲行きが怪しくなってきていて、広告絡みのイラストレーションも当然、縮小傾向。それとやっぱり、自分のつくったスタイルのコピーを長く続けるということは、ある意味ではどのジャンルでも必要なこと、大切なことなのでしょうけれども、僕にはどうも合わないんですね。スタイルをつくり上げるまでは非常にスリリングで楽しいんですけれど、つくった瞬間からそれをずっとコピーしていく、あるいは進化させていくということは、あまり僕は得意ではない気がします。
「陶芸」という新たな居場所
広瀬 そして、新たな居場所を求めて、陶芸を始められたわけですが、その前にガラスに触られた時代もあったとか。
升 パート・ド・ヴェール*8の教室に通ったことがあります。ただ、ガラスというものの性質と私の性格が合わなくて、僕はいつも手が空いているのは嫌だから、いつでも触れる土に移っていったんです。元々、かみさんからは焼き物の方が向いていると言われていたけれど、僕は絶対に土よりもガラスが向いていると意地になっていて、でもやっぱり土の方が手を動かせる(笑)。ガラスが焼き物みたいに次々とつくれたら、ガラスを続けていたかもしれないですね。
広瀬
それにしても、常に自分の立っている場所を移動させていかないとならない、というようなあり方は一貫していますね。それは焼き物を始められてからも一貫してそうですけれど、前史の中においても、そういうことがずっとあったわけですね。
常に自分をローリングストーンというか、転がる石のようにして苔むさないようにするというあり方と、同時に、絵画もそうだったし、イラストレーションも着物の世界でやったこともそうだったと思うんですけれど、誰かに師事するとか、学校でノウハウを自分の中に蓄えるとかではなく、何もないところからいわゆる独学で、自分の二つの手だけを頼りにして、そこへ接近していくというあり方は升さんらしいです。
升 本当はそういうことに対するコンプレックスはすごく強いんです。絵にしてもデザインやイラストレーション、焼き物にしても、ちゃんと正統な教育を受けて、それを素直に身につけて歩み出すということに、憧れはあるくせに、それに対する強い反発も自分の中にあるんですね。だから、それができなくて。たぶん指図されたりすることがとても苦手なのだと思います。それだけプライドが強いかというと、そうではなくて、ただそれがダメなだけで、だから結果的に自分でやるしかない。それはわかっていても、きちんと習えば済むことをやれない自分というのがいるわけで、それに対する苛立ちみたいなものは時々強烈にありますね。
広瀬 誰かに師事するとか、学校に行ってどうのこうのではないところでやっているからこそ、こういう升さんのスタイル、仕事が出てきているのだろうと思います。
升 結果的にそうなのでしょうね(笑)。
広瀬
今日は、升さんの陶芸家になられるまでのさまざまなお話についてうかがいました。
どうも有り難うございました。
次回は、50歳で陶芸家デビューされてからのお話、升さんの描かれる独創的な紋様世界のこと、昨年滞在されたバリでの仕事、工芸とプロダクトのことなどを中心にご紹介します。