Interview 升 たか「苔むさない生き方、描き方」 前編 2/3
聞き手:広瀬一郎さん(「桃居」オーナー) / 文・構成:竹内典子 / Jul. 2014
東京を離れ、地方へ
広瀬 寺山さんには強烈なカリスマ性があるから、近くにいるとどんどん巻き込まれて行くのではないですか。
升 そうですね。知れば知るほど、巻き込まれて行くことの恐ろしさみたいなものはありました。それと、自分がそこから抜け出せないだろうなぁという思いも。それは僕が田舎を出る時に思った、田舎そのものとよく似ていたんです。結局、「家出のすすめ」 *4によって家を出たのに、たどり着いた先が家になってしまうというような。
広瀬 なるほど。天井桟敷はかなりつながりの強い共同体なのでしょうね。ある種の教祖とそれを崇める信者のような関係に近いというか。
升 近いところはありますね。それに対して強い抵抗感が僕の中に生まれてしまって、僕は2年間くらいが限界でした。幻滅も失望もしていないんだけれど、とにかく居られなかった。それで東京を離れて、九州に戻ったんです。親が熊本に引越していたので、そこで3年間くらい過ごしました。
広瀬 その頃、絵の世界との接点はあったのですか。
升 ほとんどないまま、何となく3年間を過ごしていました。
広瀬 熊本時代はあまり無茶はしていないのですか(笑)。
升 それはやっぱりありました(笑)。その当時は地方にも反体制というか、いろんなムーブメントがありましたから、そういうお声がかかると、博多辺りでちょっと暴れたり、遊んだり、仕掛けたりということは。でも、何となく違和感があって、反体制とかアンダーグラウンドというものが、自分の中ではあまり意味を持たなくなっていましたね。東京を離れるということもそういうことだったのかなと思います。
イラストレーターとして大阪デビュー
広瀬 熊本での不完全燃焼時代というか、モヤモヤする時代があって、その後が大阪ですか。
升 そうです。大阪でイラストレーターをしました。
広瀬 売れっ子のイラストレーターとして活躍されたそうですが、そうなるバックグラウンドみたいなもの、特別な人脈とか、アカデミックな教育を受けた経験とかはなかったわけですよね。どのようにしてイラストレーターになられたのですか。
升 大阪に行った時に、たまたま「イラストレーターがいるよ」と紹介された人のところで、これがイラストレーターという仕事なのだというモデルケースを見て、自分もやってみようと思ったんです。それで、その人のアドバイスを受けながら、3ヵ月間自分で猛特訓したんです。
広瀬 イラストレーションを?
升 そうです。絵なら描けるだろうと思って。そして3ヵ月経ったら、その人は当時とても稼いでいたのに、僕はその稼ぎを超えてしまって。これならフリーでもやって行けるだろうということになりました。
広瀬 営業活動はどうされたのですか。
升 あまりしなくても、一つ二つ仕事をして行くと、次々と仕事が重なってきたんです。
広瀬 それはやっぱり突出した才能なのではないですか。
升 きっと時代の勢いでしょうね。大阪万博*5の前で景気も上り調子で、ちょうどイラストレーターという名前が出来上がった時代でしたから。
広瀬 横尾忠則さん*6とか、和田誠さん*7というスターが出てきた時代ですね。
升 横尾さんは天井桟敷の時代にお会いしたことがあったんですけれど、そういうアンダーグラウンドの作家性の強いイラストレーションではなくて、コマーシャルイラストレーションという広告に使うイラストが必要になっていたんです。そこで活躍する大阪のイラストレーターの元でやってみて、独立して自分で始めたというのが、僕のビジネスとしてのイラストレーターの出発です。
広瀬 それは升さんが子どもの頃から描いてきた、自分の描きたい絵画とは違うわけですか。そういうものとは別に、ビジネスとして求められるイラストレーションを自分なりに組み立てて行く作業ということなのですか。
升 そうです。どういうイラストレーションかというと、アメリカのイラストレーション。画材も当時アメリカから入ってきたもので、テクニックもアメリカのもの。そういうイラストレーションが必要になっていた時で、それを手早く描けるイラストレーターというのは、まだ少なかったんです。
広瀬 戦略的に何がマーケットに求められているかを分析しながらですか。
升 というより直感ですね。当時の日本経済の勢いもあって、次々と限りなく仕事が入ってきて、お金を稼ぎたいと思っていたわけではなかったけれど、イラストレーターになってしまったというか。本当にお金を稼ぎたいという人だったら、スタッフを雇ったり、事務所を広げたりするでしょうね。
広瀬 またそこでも、その場所にずっと居続けるということに対する違和感みたいなものが出てきたのですか。
升 そうです。10年近くやったら、つまらなくなったんです。ちょうど大阪万博をピークにやっていて、万博の終わる頃には僕は嫌になっていましたから。描いても描いても机から離れられない。絵を描くのも嫌になってしまって。
広瀬 仕事場にいる時間が半端ではないわけですね。
升 3日徹夜なんて当たり前のような忙しさでした。
渡米して学生に
広瀬 そういう時代を経て、アメリカへ渡られたのですね。
升 はい。もう一度、絵を描くことが好きになれるかどうか、描けるかどうか。とにかく、この仕事を一度辞めなければダメだと思って、27歳くらいの時にアメリカへ留学することにしました。それで、サンフランシスコの大学に入って、普通の学生として一からスケッチやデッサンを学んで、毎日が非常に楽しくなりました。
広瀬 それまで絵を学ぶという機会はなかったわけですから、初めての経験ですね。
升 でも悲しいことに、僕はすでにアメリカンイラストレーションも、学校で学ぶようなことについても身につけていたので、実質的な何かを学ぶという意味ではあまり手応えはなくて。ただ、学びの時間を過ごす楽しさというのは大きかったです。
広瀬 アメリカを拠点にして、ビジネスをしていくつもりはなかったのですか。
升 なかったです。それにはかなりの語学力が必要だし、ビザの問題とかいろいろあるので。
広瀬 なるほど。
升 その頃、学校に通いながら、エッチング(銅版画)をやる機会があって、そのスタジオをつくりました。だから、アメリカへ行っても、学校へ行っているか、スタジオにいるかで、結局、どこに暮らしてもひきこもりのパターンです(笑)。今もそうですけれど、それ以外のところにほとんど出かけないんです。
広瀬 アメリカにはどのくらいの期間、いらしたのですか。
升 2年間くらいです。帰国してから大阪に住み、再び東京へ出て来ました。
京都で着物の紋様の仕事
広瀬 たしか京都にいらしたこともありましたよね。着物の紋様の仕事をされていたとか。
升 大阪から東京へ出て来る前の少しの間、京都にいました。僕の友人の友人が京都在住で、以前アメリカにいたことがあったのに、アメリカでは会っていなかったんですが、ある時、大阪まで僕に会いに来てくれて。現代美術をやっている人で、染色も仕事としてやっていて、東京へ行くならその前に一年間だけでいいから仕事を手伝ってくれないかと頼まれたんです。シルクスクリーンによるプリント工場を持っていて、そのプリントの仕事と、彼の現代美術の方のプライベートな作品づくりの両方を共同でやってくれないかということでした。
広瀬 升さんがそれまでやってこられたイラストレーションの仕事とは全然違いますね。
升 はい。彼は当時、版画家としていい仕事をしていて、彼の表現するものは、僕とは対照的なコンセプチュアルアートで、とても新鮮だったし、魅力的だったんですね。まったく僕の中にはない世界、表現の組み立て方で。彼としばらく時間を過ごしてみたいという気持ちもあって、京都に引越し、結局一年半くらい手伝いました。でも、自分の中では5年間分くらいの仕事をしましたね。京都観光する暇もなく働きました(笑)。
広瀬 実際に仕事として、着物の友禅の紋様を描いていらしたのですよね。いわゆる伝統的な紋様というのがあると思いますが、升さんはそれから離れたアバンギャルドなものを描いていらしたんですか。それとも基本的にはビジネスとして、注文に応じて描いていらしたのか。
升 両方ありました。着物の問屋さんから頼まれる仕事もありましたから、それは自分なりにデザインした上できちんと流通できるような品物にしました。もう一つは、一点物として発表するしかないような新しいものです。たとえば、シルクスクリーンのやり方と伝統的な染め方との組み合わせ。着物としては納まりがきくんですけれど、非常にコンテンポラリーな抽象的な図案で、手の仕事とシルクスクリーンという無機的なものとの組み合わせによって、こういう紋様のつくり方もありますよというものでした。
広瀬 それもある意味、京都の伝統的な仕事に揺さぶりをかけるような仕事かもしれないですね。
升 ある程度の評価は、それぞれ受けましたけれど、それほど長い期間やっていたわけではないので。ただ、やっぱり着物そのものは、伝統的でありながら画期的な様式ですよね。伝統と言いながらコンテンポラリーですし、時代を超えてしまう形を日本人は見出している気がします。形そのものをいじる人もいますけれど、僕はやってみて、形はやっぱり、削ぎ落されて完成されている、完璧な揺るがない形だと思いました。すべてが合理的で、すべてに無駄がない。せいぜい変えられるのは、表面の装飾、つまり図案。それをどう現代の中に取り入れて、新しくして行くかということです。