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パノラマ対談「器と花」 西川聡 × 上野雄次:前編

パノラマ対談「器と花」 西川聡 × 上野雄次 : 前編 3/3

生を問う

上野 西川さんによく思い出していただきたいのですが、自分が興味をもったことのいちばん最初はどんなことですか。根本に向かっていく癖のようなものは何かな。

西川 最近はやってないですけど、自然の中でサバイバル的なことをするのは小さい頃から好きでした。小学校の時、みんなで屋外に集まって焚火してご飯を食べてみるとか。釣りしてその魚を食べるとか、そういう狩猟採集的なことをやっていました。そこに実が生っていれば食べるし(笑)。だからアフリカへ行くことに違和感なかったんです。むしろそういう環境は楽しみであって。それはある意味、原点といえば原点なのかもしれないし、田舎だったからそういうことができたのかも。でも、今振り返ると、当時はそういう人間は割と少なかったような気がします。田舎の新興住宅街だったので。

上野 なるほど。その姿は想像できますね。西川さんは、原始的な信仰の影響を受けた美術品や道具も好きですよね。何か興味を持つきっかけはあったのですか。

西川 自分で物をつくっていると、物の最初が知りたくなってくるんです。それは昔からの自分の癖でもあったと思いますけど、デザインでも何でも、たとえばハサミなら最初につくられたハサミはどういう形をしていたのかとか。焼き物では、日本なら縄文とかで、それがだんだん世界に目が向くようになって、そういうものに魅力を感じるようになったということじゃないかな。自分の感覚に合っていたのだと思います。

上野 アフリカの物とか?

西川 アフリカの物を好きになったのは、椅子が最初だったかな。東京の骨董屋で見かけて、これは何だろう、なぜこんな形をしているんだろうって、今まで見たことのないものに感動したんです。西洋の合理性がまったくなくて、そういうことがアフリカはいろんなところにあって。もちろんそれはアニミズムの信仰の要素が入った形でもあるだろうし。

パノラマ対談:器と花

上野 なるほど。

西川 ブルキナファソのロビという部族は、変わった造形をするんですね。現代に使える道具としても魅力的なものが多くて、花器に見立てられるようなものもたくさんある。たぶん僕は素朴というか、シンプルなものに惹かれるんでしょうね。それがたとえば中国とかタイとかだと、表現の仕方があまり自分に合わないような気もします。

上野 アフリカへ行かれたのは、どういうきっかけで?

西川 アフリカの物に興味をもつようになってからずっと憧れていて、まず95年頃に西アフリカへ行ったんです。そこからちょっとはまって、97年にまた行って。20代後半から30歳ちょっと手前くらいの時ですね。それまではよくアジアを旅していて、アジアは文化も考え方も日本人に近いものがある。でもアフリカは日本から距離もすごく遠いし、文化も全然違うんですね。だからいろんなことが驚きだったわけで、そこから面白くなったというか、行ってからより魅力を増したという感じです。とはいえ治安は悪いし、観光するところもない。動物が風景になるような地域はあるけど、僕が行った西アフリカはツーリストが喜ぶようなところはあまりないんです。

上野 そうでしょうね。

西川 でも、アフリカ人は本当に美しい。肌が真っ黒でピカピカで、体形は均整がとれていて、筋肉の付き方もきれいで無駄がない。生きるためにできている体なんです。歴史の中でずっと迫害されてきた民族だけど、あの姿を見ると、世界でいちばん優秀な民族なんじゃないかと思える感覚があって。

上野 まさしくそういう感触が、西川さんの持っている根本なのだと思います。彼らのように、生身の素っ裸の状態で地球上にポンと出された時に生きていけるのかと、肉体と地球の関係性の中で命をつないでいけるのかと、一番シンプルに生を問われる状況。その辺をずっと西川さんは探究しているんじゃないかという気がします。

生きていることは、いろんなものに支えられているわけで、僕らの生活なんて車に乗り、それにはガソリンを運ぶ人がいて、最初にガスを掘っている人がいて、そもそもそれが燃えることに気づいた人がいた。気候の変化に対して服を脱いだり着たりして、服がなければ生きていけないのかって、非常に脆弱な状態で自分の生が保たれている。そのことに対する、根本的な疑問みたいなことが常に西川さんの中にあるんじゃないかな。生に対する真摯な視点というか。もちろん具体的にプリミティブな造形のものの影響を受けているかもしれないけど、その表面的な感触だけじゃなくて、そこにある根本的なバランスみたいなものにまで、着眼が行っているんだと思います。

西川 そうかもしれませんね。

造形と重力の関係性

上野 造形ということの概念は、地面なりゼロベースのところから立ち上がっているもの、あるいはゼロから膨れ上がっているものやちょっと盛り上がっているだけのものでもいいけど、ゼロだという基準から上がっているものはすべて造形だと思うんです。人間だって造形物だし、器だって花だって造形物。その共通する概念って一体何なのかっていうことや、それがより感動的なレベルに達するためにはどうしたらいいのか、どうなっていればいいのかっていうようなことは、ゼロの生のあり方みたいなことをみつめてないと、そこに至れないんじゃないかな。

西川 なるほど、ゼロを知ること。

上野 その眼差しがあると、西川さんのこういう作品が生まれてくる。僕は西川さんの作品を見ていて、特に花入れの持っているバランスを見させてもらっていて思うのは、まずこの接地面=ゼロ地点からの上がり、それと最初に重力を放たれているポイントがどこから始まっているか。そこが常に完璧なんですよね。

パノラマ対談:器と花

西川 そういうことに気づいていただけるのは、本当に嬉しいです。上野さんのおっしゃっていることは、おそらくとても大切なことですよね。造形物として存在するものとして、ゼロ地点からの盛り上がりもそうだし、接地するとか、立ち上がっていくとか、そういう関係性は重要なのだと思います。僕はデッサンをやっていた頃に、人間を描くには足が大事だと言われた。足が描けていないと、いくら上半身がよく描けていたとしても、立っていないのと同じだと。立体として成り立っていないという意味ですよね。彫刻の人たちは常にそう言っていたし、彫刻的な立体把握というのはおそらくそういうこと。それがいかに美しくきれいに見えるかということをみんな考えていると思う。

上野 僕は花を生けることについていろいろ考えてきた過程で、誰もが美しいと思う基準値まで、そんなに難しく考えずにポンと超えるためには、ちゃんと本質的なことを把握してなきゃいけないんだと思った。そこでどんな作用が生まれているのかと考えた時に、いわゆる重力との関係性、重力とどういうふうに関係性を結んでいるかということに尽きると思ったんです。

西川さんの器が見事なのは、もしかしたら重力から解き放たれているんじゃないかと思わせるくらい、接地のポイントが軽やかなこと。浮き上がっているように見えて、ゼロ地点に着いているところさえ見えない。僕らが生きているということは、重力に反抗し続けられているという証でもあるわけで、死んでしまったら反抗することすらできない。生きていることを含めて造形がしっかりと成り立っている状態というのは、重力に反する行為が継続できているかどうかってことでもあります。

西川 その通りですね。

後編へ続きます。