木の姿や質感のニュアンスを、新しい感性で表現する羽生野亜さん。彼の仕事のスタートは工業デザインだった。それから手作りの木工制作へと転向。木工を始めて3~4年が経った90年代半ば、国内の3大クラフトコンペで次々と賞を獲得する。「木を知らない素人」だったからできるという羽生さんに、その独自の世界観をうかがった。
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木工を始めた当初、
大型の木工機械を借りる、
そのために福島に移り住んだ。 -
井上
私が羽生さんと初めてお会いしたのは初個展の時で、今から十数年前になりますね。個展をプロデュースされた高森寛子※1さんから、ご案内をいただいてうかがいました。羽生
高森さんは、当時、僕が住んでいた福島県の三島町に、工芸の仕事で度々いらしていて…。どこからか僕のことを聞いて、作品を見に来てくださったのがご縁です。井上
羽生さんは今は茨城がご自宅ですが、ご出身は神奈川ですよね。福島にお住まいになったのは、どうしてですか?羽生
福島の前に、長野で木工の職業訓練校※2に通っていまして、木工の大型機械を持っていなかったので、卒業後にそれを使える施設を探したら、福島にあったんです。まだインターネットなんて普及していなかったから、図書館や電話帳を頼りに自分で調べて、福島にしか見つけられなかった。三島町は会津地方の工芸の町で、工芸館みたいなところが大型機械を1時間100円とか200円で時間貸ししていたんですね。それで近くの普通の民家を借りて、畳を取っ払って作業場にして、はじめは6~8畳くらいの狭い和室でしたから、テーブルをつくるのにも壁に立てかけてやっていました。機械を借りる時だけ施設へ行って。
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井上
羽生さんは多摩美の立体デザイン科を出られてから、GK※3で工業デザイナーをされていましたよね。とても興味があるのですが、なぜGKを辞めて、訓練校に行かれたのですか?羽生
たぶん、衝動的。何かをつくりたいと思って辞めたわけではないんです。工業デザイナーは、ユーザーやマーケットを設定したり、流行や流通に乗ったデザインを出したりしますよね。そこが自分に合わないって思ったんです。大量生産を前提に、時代を追わないといけないのに、自分は時代をつかめない。自分のデザインしたものが、果たして自分が消費者となった時に欲しいか、という単純なことでもあったと思います。辞めようと決めてから行動に移すまでの時間が短かくて、おまけに蓄えもなくて、職業訓練校へ行くことにしたのは、授業料が無料だったという理由が大きかったんじゃないかな。井上
そうですか。木工をやると決めていたわけではなかったのですね。羽生
その頃の訓練校は、ガラスをやるところはなくて、焼き物か木工。焼き物はデザインした経験もなかったし、よく知らない世界で、木工は家具デザインをしたことはないけれど、自分がやってきたこととそう遠くもないような気がして、木工に進みました。井上
訓練校に行かれたことで、どんなことを得られましたか?羽生
都会の生まれ育ちですから、朝に猿を見かけるような木曽の山中の暮らしは新鮮でしたね。松本民藝家具にも触れて、生活面で知ったことも多かったです。木工をやっていく上では、何も知らない素人でしたから、訓練校ですべてを教わりました。授業の前半は道具の使い方、手道具の刃の磨ぎ方とか、大型機械の使い方とか、それに仕口※4のつくり方。後半は図面からものをつくるまでをやって、1年間で4~5点つくりました。 -
木工がやりたくて
デザイナーを
辞めたわけではなかった。
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自分の技術や発想に
自由さを失うのが怖くて、
就職も弟子入りもしなかった。 -
井上
主に指物※5ですか?羽生
無垢の木を使ったつくり方ですね。実は、無垢とフラッシュ※6の違いとか、そういうこともあまり知らないで訓練校に行ったんです。フラッシュ専門の訓練校もあるそうで、たまたま僕は、木材の産地にある無垢を扱う訓練校に行ったわけです。井上
フラッシュに進んでいたら、今とは違うことをしていたかもしれませんね。羽生
そうですね。無垢を学んだから、結果的に作家になったんでしょうね。訓練校はたった1年間でしたけれど、家具づくりを覚えたことで、自由な発想ができなくなってしまいました。デザイナーをしていた頃は、つくり方を知らないから自由に発想していたのに、つくり方を知ってしまったら、何がつくれて、何がつくれないか考えてしまう。こういうつくり方だからこれしかできない、という具合に、すぐにつくり方からのアプローチをしてしまうようになったんです。井上
その1年で学んだ技術を使ってつくるものに限定されてしまうということですか?羽生
そうです。縛られるというか…。ちょっと恐ろしいと思って、卒業後に就職したり、どこかに弟子入りしたりするのを止めました。井上
それで福島へ行かれて、個人制作を始められたわけですね。