panoramaでも多くの作品に花を生けている花道家の上野雄次さん。穏やかな息づかいで寄り添うように生けられた草花は、器の魅力を見事にひきたてている。一方、ライブパフォーマーとして上野さんがみせる花生けは、情熱的で躍動感に溢れ時には破壊的ですらある。「静」と「動」。相対する世界観を併せ持つ、上野雄次さんの花生けに迫ります。
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生け花とは、
こういうモノだったのか……。
勅使河原宏の世界に
圧倒されました。
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上野さんは京都のご出身ですか?上野
生まれたのが京都です。小学校にあがる時に大阪へ引っ越し、4年生には父親の地元の鹿児島へ。高校を卒業するとすぐに東京へ出てきました。ーー
上京したきっかけは何だったのですか?上野
工業高校の建築科を卒業して東京のゼネコンに就職したけど10ヶ月ぐらいで辞めました。翌年の春、グラフィックデザイナーになりたくて、デザインから印刷まで手がける会社に入りアシスタントの仕事を2年ぐらい勤めました。ただし素地がないので、仕事を実践しながら学ぶ感じで、感性を磨くために色々な物を見てまわっていましたね。週末の午前中は映画をみて、午後は展覧会を、夕方には芝居を見るとか……。ーー
貪欲に色々な物事を吸収していた時代ですね。花生けを始めたきっかけは何でしょうか?上野
その当時、勅使河原宏*1の展覧会を見たんです。たまたま有楽町マリオンで映画を見て、エスカレーターで降りてくる途中で見かけたポスターが格好よかった。何のポスターだろう? くさつき(草月)流って書いてあるなと(笑)。後から知りましたが、その時のポスターは田中一光*2のデザインだった。格好いいはずです。そして、行ってみるとそれは生け花展だった。見たことないし面白そうだなと。
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生け花の流派、草月(そうげつ)流の展覧会ですね。上野
そうです。勅使河原宏の最初の個展だったのかな。代表作である竹のインスタレーションの第一回目だったと思います。奥行き20m、横幅10mぐらいの通路の片方の壁から縦に割られ帯状になった竹が横に連続して輪をなした空間がつくられていました、その竹がこっちに向かって迫ってくる力強さに圧倒されて。生け花ってこういうモノだったのか……と。それまで先入観としてあった生け花のイメージとまったく違っていました。その通路を抜けた先には暗い空間に左右20m奥行10m位の真四角の池あって、そこに青竹が何十本もたっている。その青竹にユキヤナギが踊るように仕立てられていました。水面が鏡面になって青竹が映り込み天地の境がない。水面に映るユキヤナギは星を散りばめた天の川のようでした。宇宙そのものの景色に見えて、その光景に圧倒されて、おそらく2時間か3時間ぐらいその場に居たと思います。会場で売っていた本を買って帰ったのですが、それが勅使河原蒼風*3の花伝書でした。ーー
生け花、草月流の創始者であり、勅使河原宏さんのお父様ですね。上野
そうなんですが、その時は勅使河原宏本人が書いたものだと思っていました。宏が本名で蒼風が花道家としての名だと思い込んでいました(笑)。それくらい、当時の僕は生け花に対して何の関心も知識もなかった。そして花伝書を読んでみたら、書いてあることが心にビンビン響いてくるんです。花伝書と言っても、要は蒼風語録なんです。いわゆる世阿弥などの花伝書とは別物ですね。それを読んでいるうちに「生け花ってすごいかもしれない」そういう想いがどんどん膨らんでいった。生け花の教室にも通うようになりました。ーー
勅使河原宏さんといえば映画監督でもあり、生け花の世界では異色の存在でもありました。竹を使ったインスタレーションは斬新でした。表現者として、勅使河原宏さんからどのような影響を受けましたか? また、生け花を始めた当時のご自分を振り返ってみてどう思われますか?上野
生前の勅使河原宏は、「創造行為というのは破壊がなければ生まれない」というようなことを言っていて、その言葉に影響を受けています。僕は花生けを始めた当時まだ若く力が有り余っていたので、花としなやかに呼応することが出来なかったと思う。もてあました力をぶつけている感じでした。30歳までは、花との距離感を養う能力がなかったですね。その後、少しずつ花との関わり方がわかるようになってきた感じです。今もまだ途上ですが。 -
創造という行為は、
破壊がなければ生まれない。