パノラマ対談 梶原靖元さん(陶芸家) × 広瀬一郎さん(「桃居」オーナー)
「素の焼き物、根の焼き物」後編
文・構成:竹内典子 / Feb. 2018
よい焼き物をつくりたい、そのために繰り返される無数の検証。孤高なまでに純真で尽きない探究心は、時代を越えて宿る、陶工たちの想いの根っこなのかもしれません。「唐津という歴史ある産地だからこそ、梶原さんの仕事には大きな意味がある」と広瀬一郎さん。後編も、唐津を通して見えてくる、焼き物世界の過去・現在・未来についてのお話です。
身近な素材から生まれる焼き物
広瀬 砂岩は場所によって全然違う材料になるそうですね。
梶原 簡単に言うと、私の家が東の端で、白くていちばん粒子が粗い砂岩。次に松浦系になると、砂岩でも少し黄色くなって粒子がちょっと小さくなって、絵唐津とか奥高麗とかに使われるものですね。そして武雄の方になると、黒くてネチネチしているものになる。だんだん新しい地層になっていって、頁岩粘土の下から飛び出すように出てきたのが泉山陶石で流紋岩です。
広瀬 僕は古唐津というのは、朝鮮の北方、会寧みたいなところの焼き物と共通性があるなと思っていて、その辺りにいた陶工たちが唐津に渡って来てつくったのかと思っていたんです。でも、梶原さんのお話だとそうでもなさそうですよね。たまたま砂岩質が会寧の砂岩と似ていて、そこがつながってできているものだから、結局、会寧の陶工たちの技術がというより、素材としてつながりがあったから会寧系のものと共通性が見られるということなのだと。朝鮮の陶工たちは、いろんな地域から来ているのでしょうか?
梶原 民窯の細々としたところからではなくて、官窯の陶工集団を集めて来ていると思います。最高技術の素晴らしいところから。
広瀬 連れ帰る時すでに、こういう人に来て欲しいという眼で選んでいるということですね。
梶原 トップクラスの人たちを100人単位で集めていると思います。
広瀬 それは武将ごとに連れて来て、それぞれにということですか。
梶原 そうですね。中にはバラバラに集めたところもあるでしょうし、唐津の辺りは小さい集団だと思いますが、有田辺りは力を持った大きい集団。白磁は李三平が初めてといわれているけれど、実は小さい陶工集団が白磁を先に実験して成功しているんですね。そこを奪い取ったという話ではないかと。
広瀬 そういう小さな陶工集団の人たちも、官窯とかの高い技術を持っていたと思われるんですね。昔はいまみたいに電話1本でいろんな材料を取り寄せられるわけではないから、それぞれの産地で手に入る材料だけで仕事していて。それはある意味、制約を受ける不自由な仕事の仕方なんだけれど、でもなぜか、どこにいてもどこの材料でも手に入るいま以上に、焼き物としては魅力的な物を自由につくっているという感覚がありますよね。それは焼き物はもともと発生的なものだと、発生的なところに魅力も集約されるという話にもつながると思うんです。昔の方が、本当に限られた物で、テクノロジーだって電気もガスもないわけで、薪でしかつくれない。その薪もそこで手に入る薪だけで焚いているんだけれど、それでも魅力的。不思議と言えば不思議なんですよね。
梶原 自由にやるよりも、制約がある中でやる方が難しいですね。枠があって、その中でいい物をつくろうと思ったら、相当な何かが起こらないと。
広瀬 そこで生まれてくる、仕事に対する熱量みたいなものがあって、魅力的なものになっているんでしょうね。またその中でも時間に洗われて残されている物を我々は目にするから、なんでこんなにいい物になっているんだろうと思うのかもしれません。初期の発生的な焼き物だから、すべてが素晴らしい物だったということではもちろんないでしょうし。
梶原 薪にしても、松がなかったら松以外を燃やすしかないでしょう。それを何とか使うしかない。雑木はいつまでもは燃えてくれないし、杉や檜は火力あるけれど松ほどはない。やはり松が一番火力あって長く燃えていいのだけれど、松がない人は雑木で考えるわけですよ。枝葉だったらよく燃えるから、窯焚きの最後の方は枝葉を使おうかなとか、松の代わりに何かを工夫していると思うんです。だいたい、松でないといけないというのは、松でしか焚いたことのない人が言うんですよ(笑)。他の物をやったことがある人は、杉や檜でも温度上がるって知っているから。とにかくある物を使わないと。土だって黒い土しかなかったら、白化粧してとか、そういう努力や工夫が生まれるわけです。
砂岩の特性
広瀬 梶原さんは土によって焚き方も多少変えるのですか? それとも、基本は変わらないんですか?
梶原 酸化にするか、還元にするか、中性でやるか、冷却還元か。最低4つあって、窯の中に入れたものによって、釉薬の溶けだす温度とかを考えて変えますね。
広瀬 毎回、物に応じてということですね。何時間くらい焚くんですか?
梶原 最初の2時間くらいは湿気を取ったり温めたりで、そこは寝ていてもいいくらいの時間(笑)。
広瀬 ふつうの窯だと、そこでもっと時間を取りますよね。
梶原 そこがいちばん長いですね。唐津だと12時間とか。
広瀬 南蛮とか備前とかはもっとかかるし、大きな窯は温めるだけでも時間かかります。
梶原 そうですね。私はそのあと3時間くらいだから、トータルでもだいたい5時間とか、ちょっと長くて5時間半とかです。
広瀬 それはやっぱり驚きますよね。梶原さんのあの焼き物を見て、数時間で焼かれているというのはちょっと信じられないと思います。
梶原 薪の量もふつうの10分の1です。
広瀬 逆に言えば、砂岩を原料にした土というのは、その時間で焼き締まるということですね。焼成温度もそんなに高くないですよね。
梶原 だいたい1220〜1230℃。
広瀬 その温度でその時間で焼き締まる、砂岩はそういう土になるんですね。細かいところは覚えてないんですが、梶原さんがおっしゃったことをどなたかが書かれた文章を読んだことがあって。土と土の間の粒子のことだったかと思いますが、機械で精製してしまうとそういうことにはならないと。昔は機械がないから、梶原さんのやっているように石を木槌で叩いて細かくしていく、そういう段階を踏んで精製した土だからこそ、あの時間できちんと焼き締まるのだろうと。
梶原 そうですね。機械を使って土を精製する場合、細かくすればするほど粘りが出るという一般的な考えがあります。機械なら10時間砕き続けても疲れるわけではないから、できるだけ細かくしようとする。でも、砂岩の場合は、逆なんです。細かくすればするほど悪い物が混じってしまうから焼き締まらなくなる。時間はかける必要なくて、いいところだけ残して、悪いところは撥ねる、ということが大事なんです。悪い珪石分を残したまま細かくしてしまったら、粘りもないし焼き締まらなくなるんです。
広瀬 それを知らずに砂岩を精製してしまうと、砂岩は使えないよね、っていう話になるんですね。
梶原 はい、そこを皆さん勘違いしているんです。砂岩は、悪い物を取り込まないためには、時間かけて細かく叩いてはいけない。
広瀬 ということは、昔の陶工も、そういうふうにしていたわけで、採ってきた砂岩から実際に使える土になるのは何分の一とか、かなり少なかったのですね。
梶原 いいところだけを取るわけだから。柿右衛門さんのところは、そうやって天草陶石のいいところだけを取って土をつくるから、轆轤も挽きやすいし、白くていい土なんです。
広瀬 やはり柿右衛門さんとか今右衛門さんとかが使われているのは、天草の特上の土なんですか。
梶原 昔ながらのちゃんとしたつくり方をした土です。今のように機械ですりつぶすやり方はしないで、悪いところは取り除いてつくっています。そういう昔のやり方だと、天草陶石で7割くらいしか土にならないけれど、機械だと10割すべて土になってしまう。3割を捨てるか、そのまま土にするかということです。できるだけたくさん土にした方が、粘土屋さんは儲かりますから、そっちの方に走ってしまう。
広瀬 昔のやり方を機械ではできないんですか?
梶原 いや、できるんですけれど、やり過ぎてしまうから。
広瀬 そこは何を捨てるかが、肝心なんですね。
梶原 ニューセラミックの本とか読むと、100時間搗くと細かくなって成形しやすくなると書かれています。砂岩とは全く逆ですね。ニューセラミックを使う人たちは、轆轤ではなく型押しでつくるからそれでいいけれど。
広瀬 いまは個人作家と呼ばれる人たちのほとんどは、買い土で仕事をしています。それはそれで、自分のつくりたい物が買い土でできるならいいわけです。
梶原 もちろん。こちらは自分の欲しい土をつくってくれるところがないから、自分でつくるしかないだけで。
広瀬 でも、そうやって材料を調えていくことは、釉薬含めて、梶原さんの仕事なのでしょうね。それはやっぱり、そこまでやらないと、あの世界はつくれないのだろうなと思います。
梶原 すべて愉しい仕事ですよ。
広瀬 とも思います。今日は雨が降っているから、外仕事はやめて轆轤仕事だなって(笑)。でもきっと、仕事が100あるうち、轆轤とかは1割2割の仕事ですよね。
梶原 昔の陶工集団で言ったら、100人のうち轆轤師は2人。あとの人は土を採ってきたり、つぶしたりです。
広瀬 一般の人には轆轤をひくのは大変でしょうと思われているかもしれないけれど、本当はその前段がすごくあるから。
梶原 だから、私は装飾に手間暇かけないのでしょうね。これが買ってきた土だったら、装飾に手をかけているんじゃないかな。
広瀬 ある意味、もったいなくて、絵は描けません、加飾はできませんっていうくらいのところなのかもしれませんね。
梶原 土を生かすしかない(笑)。
唐津と伊万里、その周辺
広瀬 唐津焼は、日本で初めて絵を描かれた焼き物のようによく言われます。それは朝鮮から来た陶工たちが、朝鮮で行っていた技法のひとつとして、唐津でも行ったということですか。
梶原 そうです。呉須か鉄絵ですね。美濃の真似もすぐにしますけれど、もともと朝鮮の陶工たちに絵付けの技術はあったんです。
広瀬 伊万里の初期の物は、唐津の古い物と同じ窯で焼かれていたのですよね。
梶原 同じ窯で実験していますね。いま「初源」とか言われているのは、そういう実験していた期間のものだろうと思います。私も最初に石を材料にして焼いた時は、初源唐津だなんて言われました(笑)
広瀬 1610年辺りに、泉山陶石で白い焼き物が最初に焼かれて、並行して唐津もつくられていたけれど、一気に唐津は消えてしまいます。結局、商品としても圧倒的に磁器に人気が出て来て、唐津の需要が減ってしまったということですか?
梶原 藩によって違うんです。佐賀藩、唐津藩、鍋島藩。鍋島藩は自分の藩内に泉山陶石があるから、全部そっちに移りました。しかし、唐津藩は泉山陶石を使えないから、できるだけ白い物を使ってつくろうとするんだけれど、結局何百とあった窯を、椎の峯というところ1ヶ所にすべて集めて、その中から技術の素晴らしい物だけをお庭窯、献上唐津の陶工にしたんです。だから、唐津焼は続いていたんですけれど、集められて1つの村になってしまいました。
広瀬 雑器はつくらなくなったということですか?
梶原 献上唐津の方は雑器をつくりませんでしたが、他に残されている人たちはずっと雑器もつくっていました。
広瀬 それなりの生産量はあったんですか?
梶原 急に落ちました。抑えられていますから。
広瀬 武雄の方で、いわゆる1620年代から30年代くらいになると、派手な唐津という感じのものがつくられていますが。
梶原 古武雄とか、二彩唐津ですね。あの辺りは砂岩ではなく、ネチネチッとした頁岩粘土をタタキ技法で、甕をつくるしかないというか。
広瀬 朝鮮の陶工たちの技術を生かしたんですね。
梶原 朝鮮の陶工がそこでやり始めたことです。有田に対して生き残れたのは、食器ではなくて、水甕とか大きな甕をつくる技術があったからです。
広瀬 なぜあんなに派手な色合いになっていったのでしょう? 派手にするとそれなりの需要があったということでしょうか。
梶原 やっぱり商品になっていったということじゃないですか。あと、あの土というのはすごく耐火度が低くてヘタるんです。だから焼き方をまず還元はやめて、酸化焼成にしたり、白化粧して強度を出そうとしたのが始まりだろうとは思います。
広瀬 刷毛目みたいなものとか。
梶原 土肌が黒いから、白くして何とか有田みたいなのをつくりたいと思ったりもしたのでしょう。
広瀬 黒いままじゃ商品価値がちょっと。だから白化粧してみたらということですね。
古唐津の探究から韓国に興味
広瀬 梶原さんの韓国へのこだわりや興味は、古唐津を辿る中で出てきたものですか。
梶原 はい、古唐津を追い求める中で。でも、韓国の焼き物を好きになったのは結構後のことで、最初は韓国の家具、李朝箪笥とかを好きになったんです。
広瀬 それは古唐津の検証を始める前ということですか?
梶原 はい。家具の次に、韓国の家に興味を持って、自宅をそういうふうに建てました。でも、その時点ではまだ韓国へ行ったことはありませんでした。その後、古唐津をやり始めて、韓国の焼き物にも興味を持つようになって、それで韓国へ行き始めたんです。それまで韓国の焼き物は、一切好きではなかったんですよ。グニャッとしていてわけわかんない、何がいいのかと思っていました(笑)。もっとピシッとした中国の物、定窯とか好きでしたから。韓国の焼き物を好きになったのは、古唐津を追い求めるようになってからのことです。
広瀬 それも言われてみれば、ああ、そうですか、ということなんだけれど、梶原さんのつくった物から梶原さんを想像すると、ちょっと違うんですよね。クラフトに興味を持った梶原さんとか、定窯のああいうシンメトリカルなピシッとした焼き物を好きだった梶原さんというのが、いま梶原さんがつくっている物だけ見ると、なかなかその向こう側にイメージしにくい。でも、そういう前段があって、いまの物があるというのは、余計に面白いなぁとも思います。そこをかいくぐってきたからこそ、いまの梶原さんがあるんだなと。いろんなものを捨てて、捨てて、梶原さんがいるのかなって。
梶原 先にピシッとしたものをつくる仕事をした後で、こういう仕事をするというのは、また違っていてよかったんです。最初からいまみたいな仕事をしていたら、きっとこうではなかったでしょう。
広瀬 いろんな前史があったんだなと思います。梶原さんのいまの物だけを見ていると、ずっと古唐津ですか、朝鮮ですか、みたいなふうにイメージしちゃうんだけれど、そうじゃないんですね。
梶原 いまの人は弟子に入っても1年か2年でしょう。それは私にはちょっとできないような不思議なことですね。若い人に対しては、もうちょっといろんなこと見てから、自分の焼き物を始めた方がいいんじゃないのかなっていう気持ちはあります。
広瀬 でも、いまはいろんな意味であり得ないのかもしれません。梶原さん世代でも、唐津で3年やって、京都で何年やって、それで独立というのは、そこまで修業する人は少なかったんじゃないですか。
梶原 当時の弟子入りは4〜5年でしたね。
広瀬 4年修業して、あと1年はお礼奉公とかですね。漆器はまだそうした慣習があったけれど、焼き物は崩れて来ていた頃じゃないですか。
梶原 いまは簡単に窯もできるんですよね。ガス窯とか。
広瀬 いまの時代、情報はいくらでも取れるし、発表もSNSでできる。でも、焼き物に限らないのかもしれないですけれど、工芸というのは手の修業、手が量を覚えて行って、その後に切り拓かれていく部分もあるじゃないですか。洋服のセンスを見ても、僕ら世代のオシャレな人なんて一掴みだったけれど、いまって極端に言うと、みんながみんなあるレベルのオシャレ。そういうセンスを持っているから、焼き物もセンスでつくれちゃうところもある。そこそこセンスがあると、そこそこつくった物が売れる。それはそれでもちろん一つのそういう世界としてあっていいんだけれど、センスでつくって売れちゃうと、結局、それで3年くらいはもつかもしれないけれど、その後がじゃあ何をというところですよね。
梶原 相当きついと思いますよ。
広瀬 この時代が怖いなと思うのは、そこでまた次の新しい作家が出て来て、それで3年くらいは人気作家になって、というふうにどんどん消費されていくことですよね。物に力がないと、消費されるサイクルも早くなっているし、じゃあ、その後どうするんだということを考えると、昔の方がゆるく物を買ってもらえる時代だったという面もあるかもしれない。いまはまだ物が動いてくれている時代だからいいけれど、10年後って考えると、本気で物をつくっていないと、もっと厳しいのかなと思うんです。でも、昔がよかったかと言えば、昔は昔で結構パターン化されていましたよね。様式化された唐津焼はこういう物ですとか、志野はこれです、織部はこれです、というのをルーティンにして物をつくって売れていた時代でもあったわけで。
梶原 それは言えますね。
広瀬 桃居でも、たとえば中国の人たちが来て買ってくれたりすると数字が増えたりするんだけれど、でも冷静に見ていくと、中国のお客さんの需要がなくなったりとか、いま購入してくださっている50代とかもう少し上の人たちが、消費者として退場して行った後を考えたりすると、今の20代30代の人たちが中核のお客さんになってくる。そういう人たちが、どういうふうに物を見てくれたり、買ってくれたりするのか、って考えると、いま以上に厳しい時代になるかもしれません。
梶原 ブームは短いですからね。いまちょっと日本酒が流行っているから、ぐい飲みとかは反響いいですけれど、いつまでかなって。焼酎が流行っている時は、ぐい飲みとか全然売れないですしね。汲み出し茶碗が流行ったりとか、コーヒーカップが流行ったりとか、そうなるとそればかりになりがちです。
広瀬 そうですね。でも、決してネガティブにだけ10年後を考えているわけでもなくて。10年後はいま以上にテクノロジーの進展が激しく加速するから、たとえば梶原さんがされているような仕事の仕方、というのが憧れられるというか。だって、ローテクの極致みたいなことをやっているわけじゃないですか(笑)。テクノロジーでだいたいできるようなことを全部拒否して。ざっくり言えば、焼き物は基本的にローテクの世界でしているものだけれど、その焼き物の中でも、いちばんローテクにこだわってやっている人たち。梶原さんだけじゃなくて、原土にこだわるとか、薪で焼いた表情にこだわる作家さんとかいっぱいいますよね。そういうローテクな物に対するある種の憧憬とか興味って残って行くような気がするんです。ただ、そこでやっぱり選別というか、同じ薪窯でも残る人は残るけれどもってことになっていくんじゃないかな。唐津風と唐津は違う。古唐津風と古唐津は違うみたいな。
梶原 なるほど。
ローテクのもつ魅力
広瀬 梶原さんご自身は、自分の仕事を支持してくれている人はじわじわと広まっているという実感はありますか?
梶原 反対されることはなくなりましたね。以前はまず異論を唱える人の方が多かったから、それがいまは全然いないので、認められてきているのかなとは思います。だからと言って、どんどん支持してくれるという感じもしないですけれど(笑)。
広瀬 お客さんの層というのは、何か変化ありますか?
梶原 若い人が多いです。
広瀬 それは嬉しいですね。そういう話を聞くと、10年後もそんなにネガティブな未来だけじゃないって思います。
梶原 半日くらいかけて選んでくれる人もいます(笑)。
広瀬 日本人って不思議ですよね。特にいまの若い人たちはデジタルネイティブで、生まれた時からそういう物に囲まれているのに、パーセンテージで言えばコンマ0.00何パーセントかもしれないけれど、梶原さんがつくるような焼き物にやっぱり惹かれる人はいるわけです。そういう意味で、遺伝子ってなんなのかなって。この日本列島で受け継がれてきた命の中に組み込まれている何かというのがある気はします。人間も間違いなく自然性の一部であるから、人間が生物である以上、土や木はもちろん、ガラスとか、あと鉄とか人間に近しい金属も含めて、生物も含めて、人間が太古からつきあってきた自然素材というのがあって、それと官能してしまうような遺伝子が組み込まれている。だから、土が持っている自然の生命力みたいなものとかが引き出された仕事と向かい合うと反応してくる。そうやっていまの若い人も梶原さんの物に惹きつけられる、ということなんじゃないですか。梶原さんの製作のプロセスを知らなくても、土が持っている自然の生命力みたいなものが、そのまま伝わる何かがあるのかなと思います。
梶原 私自身もそう思ったというか、最初にパソコンを始めた時、あきらめたのも早かったんですけれど、あきらめたのはパソコンでできないものをつくろうと思ったからなんです。今の時代、みなさんパソコンを一生懸命やって疲れるじゃないですか。だから、逆の物、時代に真逆だけれど、見てホッとする物、ちょっと笑ってしまうような物、楽な物、そういうような焼き物をつくった方がいいんじゃないかなと。いつもそばに置いて愛されるような焼き物をつくろうと思ったんですね。
広瀬 まっすぐにその方向で来たわけですね。自分なりの唐津をと。別にローテクだけを意識したわけではないでしょうけれど、結果的にはそういうことですよね。
梶原 そうですね。
広瀬 手垢のついた言い方かもしれないけれど、物につくっている人の品性が出ると。梶原さんがどういう思いで物をつくっているのか、ということがちゃんと出ているってことなんじゃないでしょうか。語弊はあるかもしれないけれど、素の焼き物というか、何も媚びてないし狙ってつくっていない感じ。でも、今日お話を聞いていると、最初からそういう人格だったわけじゃなくて、いろいろ紆余曲折もあって、その果てという気もするんですね。拝見したことないですけれど、京都から唐津に戻ってきた頃につくっていたという手びねりのざっくりした土の質感みたいなものを押し出した物。それを梶原さんがつくっていた頃は、それを好きでつくっていたと思うけれども、やっぱりその中には何がしかのそれを狙ってつくったところもあっただろうし、売れれば嬉しいって誰でもあるそういう部分もあっただろうと思います。でもやっぱりそこを通過してきて、砂岩と出会って、昔の陶工たちがどうやってつくったのか、みたいなことを辿りながらつくり出してきて、何かが抜けて行ったというか。
梶原 次がまたありますから。新しい出会いが。
広瀬 それは楽しみですよね。日本の古い窯業地に梶原さんが行ったら、材料とか人とかいろんな出会いがあるでしょうし。美濃の土でつくった梶原さんの新作とか、見られる日が来るのかなと。
梶原 桃居展では、対馬の白土でした。次の個展は信楽の土かなと思っています。
広瀬 いずれ唐津の作家と呼べなくなるかもしれない(笑)
梶原 いやいや、僕は唐津ですよ。ちょこちょこ浮気しているだけで(笑)。まだまだやりたいことありますし。
好きなことにこだわり抜く
広瀬 梶原さんはあと20年はバリバリできますね。桃居でおつきあいのある作家さんでは、漆の赤木さんと同い年ですかね。1960年代前半生まれの人って、僕にとっては不思議な世代というか。僕らみたいな団塊の世代とも、いま桃居でお付き合いのある1970年代後半以降の作家さん世代とも、マインドセットは違いますね。
梶原 同級生の作家も唐津にいますけれど、みんな変わり者ばっかりでつながりは全くないんです(笑)。極端に個性が強くて。
広瀬 群れないんですかね。同じ世代だから共通している何かはあるのかもしれないけれど、それよりはゴーイングマイウェイで俺は俺の道を行くという感じですかね。
梶原 群れませんね(笑)。引っ張って行く感じはありますし、面倒見のいい人も結構いるけれども、私たち同士で何か一緒にというのは一切ない。まあ、焼き物やっていること自体が変わり者ですからね(笑)
広瀬 梶原さんはご実家が飲食店だから、本来焼き物の道に進まない確率の方が高かったわけで。お店を継ぐという気は全然なかったのですか?
梶原 実家は伊万里と唐津の間だから、鯉料理とか川魚料理とかやっていて、お盆なんか、何百匹の魚の頭を落としたことか。中学も高校も店の手伝いをやらされたし、京都にいる時でも、盆と正月は忙しいから手伝うし、とにかく店から離れたかったんです。
広瀬 お父様が始めたお店だったのですか?
梶原 うちの父は農家を10年やってから魚屋を始めて、八百屋をしたり、何でも屋さんしたり。
広瀬 才覚のある方だったんですね。
梶原 田舎の人としては出世したというイメージがあって。でも、好きなことばかり、趣味が多くて。焼き物にも手を出したり(笑)。最後の最後まで好きなことをやっていました。海老根蘭が流行った時は、山で海老根蘭を栽培したり、ほかにも万年青を栽培したり、錦鯉を飼ったり。
広瀬 ある意味、道楽者でもあったわけですね。父の血を自分の中に感じる時ってありますか?
梶原 もちろん。好きなことをしたということでは。
広瀬 ちょっとオタクっぽく突っ込んで行っちゃうところは、今の梶原さんと重なるような(笑)
梶原 でも、私は一つのことしかしない。親父はもうあちこちでしたから(笑)。
広瀬 そうですね。あれこれ手を出すのではなくて、ご自分は焼き物だけ。でも、徹底してこだわり抜くというところは、その血は間違いなくということかもしれませんね。