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パノラマ座談会「焼きもの好きの尽きない話 〜唐津・有田の5人の陶芸家〜」梶原靖元×矢野直人×竹花正弘×山本亮平×浜野まゆみ

パノラマ座談会「焼きもの好きの尽きない話 〜唐津・有田の5人の陶芸家〜」
梶原靖元×矢野直人×竹花正弘×山本亮平×浜野まゆみ

文・構成:竹内典子 / Jun. 2017

唐津・有田に暮らし、器を焼いている5人の作家。古唐津の研究を続けてきた梶原さんを筆頭に、古窯跡を訪ね歩いたり、古い陶片を集めたり、それぞれが古唐津への憧れを手がかりに、自らの道を育てています。その内に秘めた想いを、酒器をテーマに語っていただきました。つくり手が思う酒器の魅力、そもそも古唐津とはどういうものか、そして古唐津を通して見えてくる焼きものの面白さとは、、、。自作のぐい呑みで地酒を酌み交わす、焼きもの好きの集まりならではの語らいです。

酒盃の形、酒の楽しみ

梶原 酒盃には、馬盥(ばたらい)、平盃、山盃、立ちぐい(筒)、皮鯨みたいに口が広がったものなど、いろいろな形があります。その形の違いによる、日本酒の楽しみ方というのもあって。私の場合、最初に使うのは、馬盥とか平盃。見込みが広くて、まず、お酒を注いだ時の楽しみがあります。それに、深さがなくてこぼしやすいから、そ〜っと口に近付けて、こぼさないように大事に飲むでしょう。その行為が楽しいんです。いい酒を大事に飲むには、こういう酒盃がいいなと思います。次に替えて使うのは、山盃。口が広がっていて薄いから、甘い酒を辛くしてくれる。唐津の地酒のように甘い酒も、切れ味がよくなる。ただ、山盃もそんなに持ちやすいものではない。だから、酔いがいい感じになってきたら、やっぱり立ちぐい(筒型)かな。形的にはいちばん持ちやすくて、酒飲みにはこれが間違いない。それで、最終的に大酒飲みが持つものとなると、皮鯨。口縁が大きいから持った時に指に自然と乗って、絶対に落とさないでしょ(笑)。

イメージ:酒器(梶原靖元)
イメージ:酒器(矢野直人)
イメージ:酒器(竹花正弘)
イメージ:酒器(山本亮平)
イメージ:酒器(浜野まゆみ)
当日持ち寄った酒器 上から 梶原靖元/矢野直人/竹花正弘/山本亮平/浜野まゆみ

浜野 その時に飲むお酒は?

梶原 何を注がれても、もうわからない(笑)。

山本 馬盥は、もともと酒器にはない形なんですか?

梶原 皿としてあった形で、酒器ではなかったんです。たぶん唐津では私が初めて酒盃としてつくったんじゃないかな。備前焼にはつくっている方がいるみたいだけれど。

矢野 古い物には、小皿を酒器に見立てているのはありますね。

梶原 いつだったか、東京のギャラリーに馬盥を出した時、醤油皿ねって言われて(笑)。でも、使ったら楽しいから、私は好きでよくつくっています。

浜野 見込みの平らなところにお酒がたまって、表面張力みたいになるのもきれいですよね。

梶原 お酒を入れて眺めてみると、内部が広いのは楽しいですね。筒型だとあまり見えないから。

イメージ:酒盃いろいろ
上段左から:馬盥盃/平盃/山盃/中段左から:立ちぐい/皮鯨/その他の形の酒盃

山本 染付の平盃もきれいです。古い小皿の絵柄を参考にして、見込みに描いたものをつくっているんですけれど、お酒を入れた時に、絵がゆらゆらして、何とも楽しいんですよね。

矢野 僕は見込みというよりは、見どころかな。淡泊ではないもの、釉調に動きがあったり、貫入がいい感じだったり、何かしら見どころがあると楽しい。だから、平盃とか、筒とか、形というより、ものの面白さ、個性かな。

梶原 そうそう。何にもなかったら大量生産の酒器みたいで面白くないからね。

浜野 片口と徳利は、どういう使い分けなんですか?

梶原 夏の冷やと、冬の燗。

浜野 徳利で冷やは飲まないものなんですか?

イメージ:

梶原 いけないわけじゃないけれど、意外と徳利は入れるのが面倒だから、わざわざ徳利に冷やを入れるよりは、片口の方が簡単でしょう。いまの日本酒は冷酒で飲まれるものが多いこともあって、片口の方が流行りやね。燗のお酒がもっと流行れば、徳利もいいんだけれど。

浜野 片口だとお酒が見えてきれいということもありますね。

梶原 そうね。注ぎやすいしね。

斑唐津の話

浜野 梶原さんが「斑唐津」を夏の夜空にたとえたお話、素敵なので聞きたいです。

梶原 (まだら)唐津というのは乳濁釉のことなんですけれど、「班」という字の通りで、ただ乳濁しているだけでは斑ではないんですね。白い乳濁に、青い点々があってこそ、本当の斑なんです。昔の物には、結構、青い斑点が見られます。ところが、その青い斑点がなかなか出せない。それで私は、ちょんと一つ青いのが出たら、それを「一番星」って呼んでいるんです。七つ出たら、「北斗七星」(笑)。もっといっぱい出ると、「満天の星」。そうやって星の数でだんだん値段が高くなっていく、というのは冗談です(笑)

矢野 いちばん値段が高いのは?

梶原 それは「流れ星」でしょう(笑)。満天の星の中に、スーッと流れる星がある。まあ、そんな冗談を言ったところで、一つも出ないことの方が多いわけです。ただ、本当の斑には青い斑点があるから、星が出たものを斑の中の斑ということで「斑斑(まだらまだら)」と命名したいと思っていて。私のやり方ではなかなかできないけれど、釉薬掛けてから灰を振りかけてつくっている人もいます。

山本 窯の中で、灰が付くタイミングも重要なんでしょうね。

梶原 釉薬が溶けてないうちに付いてもポテッと落ちるだろうし、最後に付いても溶けないで残るし。その辺のことは、竹花さんはタイミングうまくやれているんじゃない?

竹花 いやぁ、稀にうまくいくことがあるくらいです。

矢野 窯の中でパチパチってはじけて小さいものが飛ぶじゃないですか。それが作用しているということはないですか? たとえば、焼いている時、まだ低い温度で釉薬が溶けていない状態の頃、灰も多少は器に降っていて、それがだんだんと溶けて行って、そのままでは斑にならないかもしれない。でも、窯の火をくべるところの近くだと、()きからはじけて飛んできたものが関係して、斑になるのかなと思ったりもします。

梶原 斑が出るのは、火前の部分と、見込みが多いよね。ただ、薪窯でなければ出ないからね。

イメージ:梶原靖元
梶原靖元

矢野 そもそも斑の青はなぜ出るんですか?

梶原 乳濁釉に灰がかかったら反応して青が出ます。

山本 NHK「美の壺」でも、梶原さんのところでその辺りのことを取材されていましたね。

梶原 テレビ局の人は、松の灰の鉄分に反応していると言っていました。でも、それではないと自分は思う。松の灰を使っているから青くなるとは限らない。乳濁に薪の灰が降りかかった時、乳濁釉が薄まり、青が出てくると思います。

竹花 たしかに、斑の釉薬が薄くなったところに、青は出て来やすいですよね。

矢野 薄くなって流れた際に、青が出たものとかありますけれど、あれはホクロみたいな青とは違いますね。青色を引き出しているのは、灰の中に含まれる鉄分なんですか?

竹花 色の原理としては、鉄ではあるけれど。

梶原 でも、それだと普通は緑になるよね。

竹花 斑では緑になるものはないですね。

梶原 斑だと青になるということ。だから、わずか何パーセントの鉄分だけでそうなるわけではないと思うんです。

古唐津とは

浜野 唐津焼は、いまの作家さんは同じ窯で幾種類も焼いていますけれど、もともとは唐津や周辺に点在していた窯れぞれで焼かれていたものです。岸岳の辺りで焼かれた物、武雄で焼かれた物、伊万里で焼かれた物、有田で焼かれた物など、その土地土地で焼かれた物ですよね。

梶原 場所によって、焼いた物は違ったんです。

浜野 その違いは、採れる原料による違いですか?

矢野 多少の原料の違いはあるにしても、極端に違う焼き物もありますよね。たとえば、絵唐津は絵柄の違いはあるにしても大きく違うわけではないけれど、朝鮮唐津はだいぶん違います。

梶原 唐津というのは、土器からずっと発展してきて須恵器になって、陶器唐津焼ができて、やがて有田になってというような歴史の流れはまったくない土地です。寸断されていて、土器しかない時代に、朝鮮半島からすべての技術がどっさり来たんです。白磁の技術は、それまでの唐津にはなかったものです。

浜野 豊臣秀吉の文禄・慶長の役の時に、朝鮮半島の各地にいた陶工が、あちこちから集められて唐津に連れて来られました。だから、朝鮮各地のいろんな種類の焼き物が唐津に入ってきたということですね。

梶原 そうです。朝鮮半島にあるすべての技術が唐津に集約された。白磁の技術を持った人、甕の技術を持った人、いろんな技術を持った人が、唐津に一気に集められたわけです。

矢野 朝鮮の技術が初めて入って来たという土地ですよね。

浜野 でも、古唐津が焼かれた時代というのは、わずか20~30年でした。

イメージ:浜野まゆみ
浜野まゆみ

梶原 歴史の中でだんだんと技術が発展したのではなくて、朝鮮からドッと来て、バッと広がって、パッと終わったという感じです。

山本 一代限りということですね。

梶原 朝鮮から来た陶工たちは、唐津では古唐津みたいな物しかつくれなかったんだけれど、ある時、泉山や天草陶石が見つかって、みんな一気にそっちで白磁を焼き始めた。だから古唐津は、短命に終わってしまったんです。

浜野 でも、古唐津の20~30年間の前には、朝鮮があるということですものね。

梶原 そうそう。高麗時代から続く李氏朝鮮までの何百年の技術が来たから。

浜野 場所は朝鮮から唐津へと変わっているけれど、陶工から見たら、朝鮮からずっと続いているんですね。

梶原 唐津にしてみれば、朝鮮から最先端のすごい技術が来たということです。唐津では土器しか焼いてなかったんだから。かわらけと木の椀しかない時代に、施釉した焼き物が来たんですから、それはものすごいことだったでしょうね。

土と石、原料の話

浜野 唐津の酒器は、使っていると変化していきます。使い手が育てて楽しめるというのは、唐津焼の魅力のひとつかなと思います。よく斑唐津の酒器は、使っている内に青っぽくなると言われますが。

梶原 青い斑点があるとわかりやすくなりますね。

矢野 お酒が釉の貫入の間に浸みるんですかね?

山本 やっぱり浸みて出て来るんでしょうね。

矢野 釉も多少の吸水性はあるということかな。

梶原 ゼロではないよね。

竹花 貫入があると浸みやすいし。

梶原 浸みるようではダメだけれど、斑は貫入も大きく入るから仕方ない。

浜野 使っていて変化を楽しめるというのは、磁器にはあまりないような気がします。

矢野 唐津ほどじゃないですね。磁器でも甘く焼けていたり、貫入や傷があってそこからちょっと浸みたりというくらいはあっても、使う内に変わって行くというイメージは少ないですね。高台の周辺が多少変わったとか、雰囲気が出てきたとかっていう感じで。

山本 古い物を見ていると、そういう面白い物もありますね。

イメージ:山本亮平
山本亮平

竹花 磁器はしっかりと焼けているものほど、変化はなくなっていくんじゃないですか。

山本 そうですね。唐津も梶原さんのつくるような砂岩で焼き締まっているものは、そんなに変化しないですよね。

梶原 本来の唐津は焼き締まっているから、浜野さんたちがつくるものと一緒です。それより、そろそろ「磁器」と呼ぶのはやめようよ。磁石(じしゃく)が原料じゃないんだから(笑)

山本 韓国ではどう呼んでいるんですか?

梶原 白磁。磁器という呼び方はなくて、染付してあるものも白磁だし、井戸茶碗みたいなものも白磁と言っていますね。大きく分けると、白磁、青磁、新羅土器の3つ、白磁と青磁の間に粉青沙器があるくらいです。

山本 梶原さんがよく言われているのは、いまの日本は磁器と陶器を分けて呼ぶのがふつうになっているけれど、そろそろ分類基準も名称も見直してはどうかという話ですよね。

梶原 有田の陶工、泉山陶石、天草陶石、そうやって呼んできたでしょう。でも、最近は陶石場のことを磁石場と名称を変えたりして、そのうち有田陶器市も有田磁器市に変えるつもりかね(笑)。陶石でつくるんだから、磁器ではなく陶器でいいでしょう。

山本 有田の古窯跡で発掘をしている学芸員の方は、逆に唐津が磁器だって言っています。いわゆる陶器と磁器の区別は、よく焼き締まって釉薬が掛かっているかどうかの違いくらいしかそもそもなかったのではと。陶器と磁器を分けるということすら、昔の日本にはなかったのではないかということです。

竹花 東洋はそこの考えが曖昧だったけれど、西洋の考えでは、含水率の%で磁器と陶器、土器、そのほかに炻器(せっき)とかも分けていた。もともと東洋と西洋の考えの違いがあったところに、西洋の考えが日本に入ってきて、陶器と磁器を分けるようになってきたということですよね。

梶原 そうですけれど、そんなに古い話でもなくて、明治のころだったか、有田にドイツ人が来てからのことでしょう。有田と唐津を差別化しようとして、磁器という西洋の言葉を持ち込んで、有田を磁器にしましょうとなった。

山本 そういう話も聞きました。

梶原 ただ、いまの唐津はある時から陶器から土器に変わってしまったから。

山本 そんな話があるんですか?

梶原 だって、いまの唐津は土器でしょう。陶石でつくるから陶器であって、粘土でつくったら土器になる。

矢野 唐津に限らず、陶器は粘土でつくって焼いていると、ふつうは思われていることですから、それはいまの時代のふつうの感覚と、自分たちがつくっていてわかることの違いみたいなものですよね。

山本 いまは昔の唐津のように砂岩を原料にしてつくる、という考え方ではなくなっているんだけれど、本来的にはこうだという話です。

浜野 私の母の世代の人とかは、唐津というと手入れが難しいと思っていたり、私も母から、お茶道具だから丁寧に使いなさいと、そう言われて育ったんですけれど、実際は古い唐津の物は丈夫ですし、扱いやすいですよね。

梶原 砂岩を原料にしていた頃は、焼き締まって堅牢な物だったけれど、土でつくるようになって、そういうものは土器だから手入れが難しいと思われたんでしょうね。あれは釉薬を掛けてあるけれど土器ですから。でも、それは唐津だけのことではなくて、全国どこでも土でつくられているものは同じです。

イメージ:徳利(梶原靖元)

矢野 でも、梶原さんがつくっている唐津のものは丈夫ですね。

梶原 私は古い物と同じようなつくり方だから。粘土ではなくて、砂岩を砕いて陶土にしているからです。韓国では沙土を使っているから沙器であって、もともと唐津は砂岩を砕いて陶土にして使っているから陶器ということ。

浜野 そういうことも梶原さんのお仕事によって検証されて、ようやくいまわかってきたことでもあります。

竹花 土と石をどう分けるか、という問題ですかね。

梶原 土、砂、石。

竹花 真砂土(まさつち)は石なんですか?

梶原 粒の大きさによって石と砂。土ではない。

竹花 でも、名前にも土とあるし、石か土かという解釈は、一般的な感覚とずれるところがあってわかりにくいです。

梶原 畑の土は粘土ではないけれど、焼き物をやっている人が使っている土は粘土でしょ。

矢野 梶原さんが使っているのは?

梶原 粘土は使っていない。陶石、砂岩、真砂土を使っています。

矢野 それらを土の状態にしたものは何て言うんですか?

梶原 それは陶土。陶器になる土。粘土ではないわけ。

竹花 本来は、陶土であるべきだということですね。

梶原 粘土と陶土は違うからね。地質的には、その場で一時風化したものは石であって粘土ではない。私たちから見たら風化して粘土状態に見えるものでも、その場から移動していないものは石なの。腐れている石であって粘土ではない。それが違う場所に移動して堆積していくと、二次風化したものだから粘土になる。だから、一時風化なのか二次風化なのかによって線引きされる。

竹花 そうなると、採ってきた後の粘土と石の違いは、ますます見分けが難しくなりますよね。

梶原 専門家はわかります。

浜野 面白い話ですけれど、だんだん話が一般向きではなくなってきましたね(笑)

山本 でも、僕にはとても為になります。

矢野 ここにいるのは、梶原さんのされていることや考えに影響を受けているメンバーですけれど、ぐい呑み一つとっても、唐津にはいろんな考え方の人がいます。何がつくるものにおいて大切かは、それぞれに違いますから。

梶原 日本は割と甘いんですよね。楽焼があったり、工芸を芸術と言ったりするから、水漏れしても許されるというか見逃されることがある。本来はそういう用途のあるものは、使えなければ不良品で、食器として出すのはどうかと思います。

矢野 でも、良し悪しは別にして、それを楽しんでいる人もいます。他の国の価値観が正しいとも言い切れないし、つくる人それぞれにポリシーや想いがあるだろうし。自分は梶原さんのそういう姿勢とか、先ほどの粘土の話みたいなことに刺激を受けて、自分がつくる時に考えるきっかけをもらっていますし、やはり、つくる物は良い物でありたい。古い焼き物とか、400年前の古唐津と呼ばれる物に、良さを感じている人は多いと思いますが、それはなぜかというと、先ほどの原料の話であったり、焼き物の強度や使いやすいさといった性能であったり、そういう昔からの自然な焼き物づくりから生まれて来る美しさ、肌合いの良さみたいなものの魅力。自分もそこをとても感じるので、大切にしたいと思っています。

竹花 好みはいろいろあっても、基本はそうですね。

梶原 私が言いたいのは、自分はそういう方向でつくりたいということであって、いろいろなやり方があっていいと思っています。

私的ぐい呑み考

矢野 ぐい呑みについて、皆さんに聞いてみたいのですが、まずは山本さんから。もし、どんな物でも所有できるとしたら、何を選びますか?

山本 自分のリアリティでいえば、自宅近くの古窯・小物成窯でつくられていた、何でもないような素朴な唐津がとても好きだし、つくりたいと思います。でも、リアリティを離れて、手に入れるだけなら、中国の古窯で、当時の最高技術でつくられた青磁とかかな。ふつうでは到達できないような技術の物が欲しいです。

梶原 酒盃はないんじゃないの?

山本 そうですよね。

矢野 酒器として使うとしたら?

山本 この先変わるかもしれないけれど、いまは初源伊万里の唐津みたいな白磁ですかね。唐津の挽き方で、唐津みたいな削りの白磁のぐい呑みがあって、白磁誕生直後という感じが色濃く出ているような物です。細かな貫入も入っていて、それを使い込んでみたい。

梶原 昔はみんな薪窯だし、薪窯でないと貫入は入らない。それに、貫入だけでなく、灰が厚くかかって緑色に濃くなった物とかは美しいですね。

矢野 浜野さんはどうですか?

浜野 ある方の私物で拝見したんですけれど、すごく平たい唐津で、たぶん小皿ですかね。私はお酒に弱いので、その酒盃のちょこっと溜まるくらいがきれいで、飲めなくても飲んでいる気分を愉しめて、自分に合っていそうだなと思いました。昔は、小皿としてつくられた物をぐい呑みに見立てて使ったりしたと思うんですけれど、いまの陶芸家の方たちは、それをぐい呑みとしてつくりますよね。山本さんも窯ノ辻という古窯でつくられた小皿を、ぐい呑みとしてつくっていて、昔の人がつくるとそれは小皿だけど、山本さんがつくるとぐい呑みになっていて、それはつくる意味があるというか、なるほどって思いました。そういうことを唐津の方もされていますよね。昔はお茶碗だった物を、いまはぐい呑みとしてつくってみたり。それって魅力だなと思います。

矢野 好きが高じてという感じですかね。昔の物を見立てて好きな人たちが愉しむ、という文化を、自分たちもまた愉しんでつくるというか。

梶原 昔はぐい呑みなんてないから、全部見立てで使ったでしょうから。

イメージ:

矢野 梶原さんは、どれか一つぐい呑みを手に入れられるとしたらどうですか? 美術館にあるものでもいいとしたら。

梶原 私は骨董の蒐集趣味はないのよ。破片だったら好きだけれど。

浜野 梶原さんは窯跡とかで、そこにある陶片でお酒を飲んだりしますよね。あれは格好いいなって思います。

梶原 陶片で飲めるからね。

イメージ:陶片
陶片 *イメージ

浜野 韓国の窯跡に行った時も、「ちょっと飲もう」とか言って、マッコリと料理を持って行って、その場で陶片を器にしている姿は、似合っているなあと。陶芸家ならではと言いますか。

矢野 古窯のその場で、そこにある物を使いたいわけですか?

梶原 そこで昔の人が仕事してつくった物だから。皿が割れて半分だけ残っていたら、近くの川でちょちょっと洗って、そこにキムチのせて使えるじゃない。

浜野 昔の陶工たちに対する想いみたいなものが、梶原さんから見えるんです。

梶原 そこで飲むと、昔の陶工たちと一緒に飲んでいるような気分になるでしょう。

矢野 たしかに韓国でも唐津でも、窯跡に行くと気持ちいいですよね。昔に想いを馳せたり、いま自分がやっていることで思うこともあるし。

梶原 そういえば一つ思い出したけれど、斑唐津のすばらしいのを使わせてもらったことがあります。白洲正子さんが愛用された斑の山盃。それは青がいっぱいでね。昔の斑って変化があって均一でないから、濃いところと薄いところがあるの。その斑で飲ませてもらったのはよかったなあ。

山本 それは展覧会に出たりする物ですか?

梶原 ある所に行っているものだから、出てはこないでしょうね。それと、唐津市が所蔵している中に、多久高麗谷窯の物で使ってみたいものがあります。相当に轆轤の上手な人が挽いていて、ボテッとしてなくて品がいい。一杯飲んでみたいですね。自分の物にしてしまったら、壊してはいけないし、後が大変だから、欲しいとは思わないけれど。

矢野 竹花さんは自分で使うぐい呑みは、どんなふうに選んでますか?

竹花 酒が飲みやすいものがいいですね。あとは、その季節とか気分で変わります。

矢野 入手するとしたら?

竹花 何でも欲しいと言えば欲しいんだけれど、これっていう物は、だんだんなくなってきたかな。

梶原 たぶん自分の技術が高まって、いいレベルになってきたからじゃないの?

竹花 そんなことないんですけれど、自分が好きだった物も変わってくるじゃないですか。もうちょっとこうだったらとか、わがままになってくるというか。

矢野 自分のオリジナルを求めているということですか?

竹花 でも、この前見せてもらった何てことのない山盃は、キリッとしていて欲しいなと思いました。

イメージ:竹花正弘
竹花正弘

梶原 私は、いいなと思う物を自分の物にしてしまうと、つくろうという気がなくなるの。手元になければ、ああいうものをって思ってつくろうとするんだけれど、持ってしまうと安心してしまって。だから私はいらない。蒐集家ではなくてつくり手だから。

竹花 いい物ができたな、と思ったら、次もそれをつくろうとは思わないですからね。

梶原 思わない。できてないからつくろうって頑張る。土だって手元にないと、欲しい、使いたいと思うのに、いっぱい貯まっているとなぜか使わなくなるしね。

山本 でも、昔のいい物を手元において、それを見て参考しながら轆轤を挽いたらいい線に近付くかなとか思いませんか?

梶原 それには陶片でいいの。陶片なら断面が見えるから厚みもわかる。完品は厚みがわからないですから。

竹花 でも、完品だとすべての姿が見えますし、重さも量れます。

梶原 それは想像でいいんです。やっぱり断面で土が見えている方がいい。写しをする必要はなくて、気持ちというか、精神を倣いたいだけだから。同じ形をつくろうとは思わないですし。

竹花 ただ、同じ物はできないですけれど、サイズ感、重さ、使い勝手とかが、手元に物があれば、手取りの感覚をどういうふうにもってくるかということにあまり迷わないですよね。

梶原 昔は奥高麗茶碗とか、本当に触りたかったですよ。触ったことない頃は、本物はどれくらいズシッてくるのかなと思って。でも、5~6個触ったら、だいたいのことがわかってもういいやと思いました。

竹花 だから、本当にいい物は触りたい。その時々で刺激になりますから。

梶原 矢野くんは、どういうぐい呑みが欲しいの?

矢野 無地の肌で、古い物で使われているような感じっていうか。しっかり焼けている古唐津みたいな唐津らしい肌で、それもちょっと岩色とは言わないけれど自分の思う唐津らしい伊万里の辺の、それもちょっととろみがあるとさらに嬉しいというか。そういう自分が思う唐津らしい肌をもっている山盃でもいいし。それか、斑唐津か。

梶原 えらい贅沢やな。すべて言ってる(笑)。いま矢野さんが言ったことは全部足すの?

矢野 いやいや、足さないです。

梶原 足したらダメやね。

矢野 その二つが欲しい(笑)。

竹花 矢野さんのは、これが欲しいじゃなくて、自分が求めているものでしょ(笑)。でも、それって、なかなか存在しないんだよね。

山本 斑唐津は置いといて、無地だったら奥高麗っぽいとか、もっとすっきりしたのとか、どういう感じなのかな? それによって印象が全然違うから。

梶原 そうだよね。無地にも幅があるから、どれか1個にして聞きたいね。

矢野 じゃあ、どれか一つと言われたら、還元の利いた緑の肌。そういうのが欲しいです。

山本 そうなんですね。

寄せる想い

矢野 自分たちは唐津のぐい呑みをいろいろつくっていますけれど、古唐津や朝鮮の古い物のいい物は、基本というか、物を考えたり進めたりしていく上でベースになっていますよね。そうかと言って、写しをやっているわけではない。でも、そういう話になると、みんな人一倍こだわっている感じがあって、唐津の枠からあんまり離れて行かないですよね。それはなぜなんでしょうね。もっと違うものをつくってもいけないわけじゃないのに、なぜ留まるんでしょうかね。

イメージ:矢野直人
矢野直人

竹花 やっぱり唐津が好きだからでしょう。

矢野 そうですけれど、唐津の何をつくっているんですかね。唐津の写しはつくってないですよね。唐津の精神ですか?

竹花 何かな、空気感とか?

梶原 難しいね。

矢野 難しいですけれど、精神性とか、唐津って何だろうとかいうのは、とても思うことです。いまの時代につくる意味みたいなことも考えるじゃないですか。

梶原 難しいことを考えてもわからないし、答えは出ない。やはり、私はつくり手だから、とにかく土を捏ね、轆轤を回し、焼くこと。この繰り返ししか、私にはできないと思っています。

竹花 これは自分の考えですけれど、唐津はほかの古い焼き物の産地と違って、かなり特殊な感じがします。茶陶とか、民藝とか、そういうカテゴリーとも違うというか。唐津にもたしかに茶陶はあるけれども、何とも言えない素直な魅力、というのが唐津にはありますね。

山本 原料じゃないですか? 精神性とかよくわからないけれど、唐津や有田には、使えそうな石がたくさんある。それをどう生かすか考えるのが楽しいです。

浜野 原料自体に個性があって、つくり手がつくり出しているようで、原料がなりたい姿になっているだけかもしれません。

矢野 どこの産地にも素材の良さがあるけれど、唐津の土味には特別な魅力を感じます。地元の人間だからそう思うのかわからないですが、唐津が大好きです。良い物がつくりたいですね。

イメージ:座談会
梶原靖元 工房にて 2016.8

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