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パノラマ対談「器と花」 西川聡 × 上野雄次:前編

パノラマ対談「器と花」 西川聡 × 上野雄次 : 後編 3/3

植物へのまなざし

上野 僕は花生け教室でもどこでも、常に同じような話をしているんです。西川さんの器は、肌合いをはじめ、かなり高い水準の仕事をされていて、特に造形としての完成度の高さにおいては、接地面は誰よりもアベレージが高い。先ほどの重力との関係性の話などもそうですが、今回お会いして、その辺りのことはぜひお伝えしたかったことでした。

西川 嬉しいです。

上野 根本的なバランス感覚をどんなことでも優先して行くと、いわゆる美しいバランスのものが目の前に立ち上がってきます。でも、戦後の生け花は、花の造形に走り過ぎて、理想的な形というのは当然あるんだけど、植物には個体差があるわけで、それとしなやかに関係性を結んで行くというのは重要な側面なのに、造形に走り過ぎるとそれを折って形にすればいいじゃないみたいな話にもなってしまう。

それはそれで戦後の過程として歴史として面白いあり様なのだけど、全部が全部そっちに行ってしまって、材料としなやかに関係性を持つ形に、うまく折り合いをつけて行くということのノウハウが、どんどん消えて行ってしまうのは本当にもったいないと思っています。

西川 そうですね。

パノラマ対談:器と花

上野 最初に話しましたけど、今の時代をより豊かに、世の中をもっとよくするというのは、みんな仲良くしようよみたいな話だったりするわけです。それをまずは自分のエゴの方に折り曲げて消化するなんてことは、時代錯誤なことであって、今の世の中ではあり得ない。そういうところは、華道の世界はしなやかに戻りきれていないのかもしれません。

西川 なるほど。

上野 中川幸夫さんの見事なのは、バランスを整えることに誰よりも秀でていたこと。だから奇を衒う仕事も鮮やかに、人の心をガッとつかむバランスでアプローチできるんです。それがただの狂人だったら、そういうことにはなり得ないですね。非常にバランスのいい花生けの方です。

今何が必要なのか、今というのはさらにその先の時間に必要だとされているものであり、先駆的な役割をする存在としては、人が常識だと思っているものをわざわざやることはない。時代の過程を見ていると、みんながこういうことわかってきたねと言い出した時には、もう彼はそのことに飽きていて、次のステップを踏んでいるんです、常に。それだけいつも、時代と人をよく見て観察している。

感動は、多くの人が常識だと思っていることを逸脱して超えたところにあります。その逸脱するにも、すべての要素を抱え込んだ上でそれを超えなければ、ただの別なモノとして排除される程度のものになってしまう。受け入れざるを得ないものをちゃんと抱え込んでいるからこそ、表現も鮮やかになるんです。

西川 ちょっと話は変わりますけど、上野さんは自分で花を生けていて日本人だなって思われますか。

上野 確信はないですね。日本人であることは間違いないと思うんですけど、そうであるということを信じたい、確認したいという思いで、いろんなことに対峙して、その結果、日本人なんだと自分の中で刷り込んでいるところもあるかもしれないですし。

僕がやっているのは華道という文化であり、「花道家」を名乗っているから、そのことの担い手であり、そのことの高い水準に手が届くように努力するつもりで生きている、ということを表明しているわけでもあって。そういう意味で、日本人の文化とできるだけ一体化する存在であるべきで、そうなりたいということはあります。でも、それは外国の人が日本の文化に触れて、そこに向かって行こうとすることとさほど違いはないような気はするので、自分で決めてそうしたいと思う方向へ向かっているというだけでもあります。ただ、日本の文化の中で培ってきたものや古いものに触れて、本質的な確信のようなものを得てくる機会はいろいろあったので、今はそれをそうだと信じて生きているという過程ですね。

西川 今日は上野さんに僕の工房に来てもらって、一緒に真鶴で花摘みをしてみて、僕はやっぱり上野さんをすごいなと思いました。僕も山へ行って、ちょっと花をもらってくることはあるんだけど、あまり考えないでとりあえずこの辺という感じで切って、家に持ち帰ってから使うところを選べばいいかという感じ。だけど上野さんはプロだから、花は必要なところだけをいただくという、そのプロセスをちゃんとやってらっしゃる。本当に感心しました。その精神は日本人だけではないかもしれないけど、日本人は自然と共存してきたわけで、そのことがすごく大切だと言われ続けてもいる。最小限のものをいただく、とらないでいいものはとらない。無駄にしないって。

上野 結局、取って使わなくて、バケツ花にしちゃったという姿を見たら、誰しも同じように嫌な思いをするわけです。自然からいただく瞬間はさほど痛くもないけれど、生けられずに枯れて行ったものを処理する過程で、あまりすきっとしない思いみたいなものが募ってくる。そういう罪なことを僕は人よりも多くしてきていて。もうそろそろ罪のリミットを超えてしまっている感じです。

もちろん最初からそんな感覚があったわけでもなく、今でも無駄にしてしまうもの、水をやらずに枯らしてしまうものもあります。今日はほかの人の管理している場所に来ているし、自然のバランスもそうだけど、そこに関わっている人の姿も見え隠れするから。それに、咲いている花ばかりでなくても、拾った枯れかけの花でも成果は出せますし。

パノラマ対談:器と花

西川 学生に焼き物で花器をつくるという課題を出すと、最近は少なくなったけど、以前は何でわざわざ自然の中から花を切って持ってきて花器に生けるんだとか、そんな花器をどうしてつくらなきゃいけないんだと言った学生がいました。それはその人の考え方、哲学であって面白いと思うけれど、そういうことは昔からよく言われていて、日本人的だなと思うんです。西洋では花をバシバシ切って、20~30本の花を花瓶に生けるなんて普通じゃないですか。そこには今言ったようなもの悲しさとかは、あまり感じられていないのかもしれない。

上野 僕は省エネでもあります(笑)。自分のやることについても、エネルギーを使わないで伝わることがあればいちばんいい。言葉だってあまり尽くさずに一言で伝わる方がシンプルでいいように。花生けというのは、コミュニケーションツールとしての側面も大きいと思いますし。

西川 今日の花生けを通してちょっと思ったのは、僕が器をつくって、上野さんがそれに合わせているという捉え方もできるわけで、そこが少し申し訳ない気もしました。

上野 僕の仕事は、先に器があって、その上にのっかっていく仕事なので、時間軸で考えたら僕が後づけになるんです。今回はパノラマの仕事としての役割もありますし、でも、このようなやり方が自分の中でつまらないということは一切ないです。とても気持ちのいい状態に至れて、すごく嬉しかったです。

西川 上野さんに僕が合わせて器をつくるということもありかもしれないけど、具体的にどういう方法があるのかと考えるとちょっと難しい。でも、合わせるのではなくても、こんなものはどうだろうかと、上野さんという人間を意識して何かつくったらどうなるのかな。そういうものが1個くらいあってもいいかもしれない。また次の機会に、考えてみたいです。

上野 そういう意味でいうと、西川さんはアニミズム的なことに興味がおありだから、西川さんが思う、信仰の対象の存在となるようなシンボリックな造形物、というのはどんなものなのか見てみたいですね。

西川 難しいなぁ(笑)。

上野 今まであったものを模したりするとかではなくて、今までの仕事の延長線上で、よりそういうバイブレーションの高いものはこうなるんじゃないかというようなもの。その思考の過程を踏んで、結果的に同じものが出てきても全くいいと思いますし。あるタイミングでの結論めいたものを見られたりすると、すごく嬉しい。

西川 じっくり考えてみますね(笑)。 今日は本当に楽しかったです。どうも有難うございました。

上野 こちらこそ有難うございました。

※花生けされた花器の写真は、近日西川さんの作品ページにアップ予定です。