パノラマ対談「器と花」 西川聡 × 上野雄次 : 後編 1/3
共感と緊張と感動
上野 花生けというのは、植物のためには全く何も役立っていないんです。切ってしまって、彼らの生を奪い取ってきているわけで、植物を生かすなんて言葉を使って何をやっているかといえば、その生が生き生きと見える状態に、人間が感じ得るバランスにつくりあげている。人間がきれいだと思うかどうかということに反応させているのであって、植物が行きたいと思うところに持って行っているわけじゃない。人間の感情、人間から植物を見て、生がこういうバランスであるというところに、もう一度振り戻している作業。
その生は何に訴えかけているかというと、人間にしか訴えかけていない。つまり、人間が思う生の形、バランスに持ち込むことが、人間の共感を生む。花生けは、植物が持っている生のバランスと、人間が持っている生のバランスの共通項を探るという作業でもあるんです。
西川 なるほど。
上野 そういう着眼においても、植物が根から立ち上がったところで何をやっているかといえば、もちろん地面をベースにですけど、より多く光合成するために、できるだけ光に近い所で自分の生のバランスにおいて最大限の成長をしようとしている。場合によってはほかの生態の陰に入ってしまって、枯れてしまうこともあるけれど、それをできるだけ避けようとして横へ伸びて光のある方に向かっていく。
そのバランスを人間が見ていて、植物の上へ向かうとか光に向かう行為が、同時に1Gの重力状態に反する人間の行為にもつながってくる。それは人間が死んだら倒れるしかないけれど、生きて立っていられることの根本的なバランスを、植物にも見出しているということ。自分自身が重力に抵抗し続けているという根本的な感覚があるから、ふだん自分が思っているバランス以上のものがそこに生まれた時、強い感動が生まれてくるのだと思います。
西川 上野さんのおっしゃっている重力との関係性は、すごくよくわかります。花を生けることは、あの細い茎を、ただ立てようと思っても絶対に倒れるわけで、安定状態に反している。僕のつくる花器もアシンメトリーだったり、コロコロ転がりそうな形だったりと、不安定な感じに見える。だから花とバランスを合わせやすいのかもしれません。それが仮に富士山みたいな形の花器だったら、すごく安定しちゃっているから感動が生まれにくいだろうし。
上野 西川さんの花器の持っているバランスというのは、まさしくそこに近付こうとする行為の本当に始まりを生み出してくれている。まずは重力との関係性があって、次にバランスが一方なりどちらかへ崩れていく過程があって、造形的な流れの中に一つのストーリーが生まれています。 たとえば花を生ける時に、一方に傾いたバランスで生けるような花器の場合、その花がより一方に長くなって行けば行くほど、その方向が抱える重力は目に見えて強くなって行く。それをどれだけ支えきれるかというようなことで、いわゆる緊張感や感動が高まって行くわけです。
先ほどハレの日が芸術的な領域に近付く日であったりするという話をしましたが、その花が伸びて行って、限界値まで行けば行くほど、芸術的なバランスに近付く。逆に花器の口元にポッと花が置かれていたら、それは日常的なケのバランスに落ち着いて行くってことにもなる。
西川 わかります。人はあり得ないことに感動するわけで、人間の常識を超えて行った時に、緊張感とか感動が生まれますよね。花を土の上に刺して立てたら、そこには緊張感も何もない。だから剣山を使ったりするんでしょうけど、剣山を使わずに、より自然に花器に引っかけたり、たわませたり、ということで見せるというのは、そういう意味合いもあるのでしょうね。
上野 僕は剣山反対派なんです。ここ十数年、剣山は使ったことないです。剣山を完全に誰にも見えないような状態につくれたとしたら、仕掛けとして許される範囲でしょうけど、もし覗かれて見られるようなことがあったら、剣山は誰でも花を立てられる仕掛けだから、そんなものに人は感動するのかと問いたい。俺でもできるよということがあったら、それは感動の領域からバイブレーションが下がりますよね。
ところが剣山を使わずに、花器の口のエッジのところに、ほんのちょっと掛かっていることによってすごいバランスで花が立っているみたいなことが起きていたら、誰しもがこれはすごいという感動に行き当たるわけです。
西川 剣山は重いから何でも立てようと思えば立てられる(笑)。
上野 見栄えも悪いし、技術的にも安易。重しですから素人でもできます。そんなバランスでしか花を生けられなかったら、多くの人を感動させることはできない。だから、技術が高まって行ったら、誰もが剣山を捨てるべきだと僕は思う。練習するために、緊張するバランスをつくるにはこうしたらいいんじゃないかというのを模したり、確認したりするための道具としては有効かもしれないけど。それでも僕は剣山を使う行為自体が好きではないです。
西川 わかる気がします。
上野 より人を感動させるのは、造形という意味においては、緊張感、重力との関係性みたいなことに尽きます。こういうバランスまで緊張感をつくれば、ある程度の感動を人に与えることはできる、ということをおおよそ理解できた時点で、アベレージは完全に上がります。あとは色や肌合いのようなもの、光に対してのことなど、また別なバランスがあるわけで、構成要素はどんどん増えて行って、そのバランスを超えれば、さらに高い次元の感動にいたります。
西川 そうですね。
上野 肌合いとかテクスチャーに関して、西川さんの作品には、時間を定着させるストーリーがありますよね。ピカピカで新しいものがもっている初々しい感動も他方にあるけれど、その対極に、どれだけ長く深い時間がこの中に定着しているのかということがある。たとえば地層には、一人の人間が消化できる時間のスケールではないところで進行した深くて長い時間があり、それが目の前に物として現れてきていることの説得力に、人間は憧れる。できるだけ長く生きていたいという思いも含めて。
同時に、自分が持っている生のバランスが、次の世代、また次の世代にも綿々とつながって行くことへの憧れみたいなものも持っているわけで。西川さんの花器の表情には、そういう長い時間が定着しているような印象があって、それはもう心動かされないはずがない。
西川 そう言っていただけるのは嬉しいです。
上野 表情という意味では、初々しいものでないのであれば、そちらの方にどれだけ深く傾いて行くかということが、重要なバランスだと思います。それと、常軌を逸した強いエネルギーがそこにかかっているという証のようなものがあるのも、説得されるポイントです。人間が日常的に生きていられるバランスを超えたもの。それが火であれば、燃え出したら人間の手から離れて行くし、触れ続けたら死んでしまう。そういうものを通ってきているという説得力みたいなものが、表情に定着しています。
素材の表現力
西川 器の素材によって、意識して変えることはありますか。たとえば銅と焼き物では違うとか。ただ表面的なこととか、素材のきれいさとかではなくて、今言われたようなエネルギーみたいなものとかで。
上野 僕は最初に視覚的に訴えかける仕事なので、過程が視覚的に定着していなければ、効果として有効ではないんです。イメージはできるかもしれないけど、ぴったりと植物と合っていかないでしょうし。鉄や銅に熱をかけて板にして、それを叩いて膨らませて形にする鍛金みたいな仕事だったとしても、それを見て火を通ってきたというイメージにたどり着くことはほとんどないですよね。外側からバーナーで炙って、火の跡を着けるということがあれば別ですけど。でも、それだって火で燃え盛っているような状態ではないですよね。たとえば焼き物で釉が溶けてダラダラっと落ちているようなものは、しかもそれが地面に着く直前で垂れが留まった状態だと、その過程みたいなものをイメージさせることはできる。そういう過程がわかりやすい形でビジュアルに落とし込まれているものが有効です。
西川 ガラスの場合はどうですか。
上野 特にクリアガラスは、高温でつくられているけれど、あの透明感は最終的に水のイメージに近付く。だとしたら、水のイメージに準じてアプローチをすることになります。
西川 珍しい素材に対してはいかがですか。
上野 最近でいえば、グラスファイバーみたいなものでつくって、ピカピカに塗装したもの、メタリックに塗装したアートっぽいものとかありますよね。そういうものであっても、僕が思う高い水準の仕事というのは、いかなるものに対しても対応できるかどうか。僕の好みがどうとか、僕が生きてきた過程がどうとかいうような個人的レベルの感情やバランスで仕事をするのは、次元としては低いと思うんです。我だのこだわりだのを優先するのではないところに、高い次元の仕事なりバランスはあると思うので、どんなものにもフィットできるか対応ができるかどうかです。ピカピカのメタリックのものにも、僕が花生けで対応しろというのであれば、自分の今まで培ってきたものを全身全霊で費やしてでもフィットさせていこうとしますね。
花いけ
対談当日は西川さんの器に上野さんが花を生けました。
花材の一部は真鶴の西川さんの工房近くで採取。
その花いけの様子をご紹介します(花材採取の様子はこちら)。
また、花生け作品については近日西川さんのページに掲載予定です。
Yuji UENO "hanaike" March 2013 from panorama on Vimeo.