パノラマ対談「器と花」 西川聡 × 上野雄次 : 後編 2/3
美しさの基準値
西川 僕は花器をつくる時に「見立てる」ということを頭に入れながらつくることがよくあるんです。上野さんはこれまでいろんなものに生けてきて、これは見立てとして面白いというのはありましたか。たとえばドラム缶とか一斗缶とか(笑)。僕は辻清明が缶の花器をつくった時、これは面白いと思って感動したんだけど。
上野 初めて見立てのバランスを知った時には、ずいぶん驚きました。僕が最初に見たのは、西荻窪にある「魯山」という骨董屋さんで、店主の大嶌文彦さんが、拾ってきた屑鉄を花入れにして見せていた。それを見た時はかなりショックで、自分は花を生ける人間なのに、こんなことも知らないでいたんだと思った。プラスティックのビニール管みたいなものが熱でぐちゃっと潰れたものも花入れにしていて、これの面白さは何なんだというようなことを、恥ずかしげもなく聞いてみたら、「いや、いいと思えばいいんだよ」と言われて(笑)。
見ているとやっぱり美しくて、それがもともと何であるか、何であったかとか、今どうしようとしているのか、ということを常識的なバランスで見るのではなくて、単純にこれが美しいものであるかどうかという基準値みたいなものを、自分自身が得られるかどうか、と問われている仕事なのだと気付いたんです。
西川 なるほど。
上野 その時に、どんなことでもあり得るんだと思いました。それはすごいショックでしたよ。感動を生むバランスは、人それぞれあると思うけど、それぞれの視点にとって今までの固定観念みたいなものが、足元から突き崩されていった瞬間に、その人にとっての感動が生まれる。まさしくそれがその時起こりましたね。だから大嶌さんには感謝しています。その時に感じたものに準じて、ずっと今まで来ているところはあります。どんなものでも花は入るということです。
西川 その辺が、僕も興味あるところです。新しい形や表現でも、ちゃんと花が入るとか、何かしっくりくるみたいなことに。
上野 僕の仕事は、生けたものはすぐに無くなっちゃうし、十年前の仕事が写真に残っていることはあっても目の前にはないわけで、西川さんの仕事みたいに形に残るものというのは、そりゃもう大変だと思います。十年後にも、十年前のものが存在していますからね。
西川 でも、それを「あぁ、ダッサイのつくったなぁ」とか思っている方が、何か成長している気にもなれる(笑)。
上野 つくっている当時は、これに熱くなれていたというか、これは最高だと信じていたものだったりするのでしょう。その熱くなれていた感覚、それ自体はすごく重要なバランスですよね、その個人にとっては。次元が低いかもしれないし、いろんなことがあるかもしれないけど、そういうバイブレーションを持てていることについては、何事にも優先されるべきだと思います。その時代のいろんなバランスがあった上で、そこに至っていたということが重要だと。今考えたら、バブルの時の肩パットが入ったスーツなんて恥ずかしくて着られないけど、当時はあのバランスになり得ていたものが何かあって、それが当時にとってはすごく重要なことだったわけで。
西川 街とか空間とかすべてがそういう感じでしたよね。世の中のバランスとしておかしくなかったし。
上野 あきらかにすべてフィットしていました。僕も髪型はツーブロックたったし(笑)。全体のバランスの中で自分が熱くなれていたことが何だったのか、そのことに関しては絶対、不変なんですよね。初歩的なバランスにおいて熱くなれる感触というのは常に不変。それ自体は常にフリーズした状態で、時間が変化することで有りようも変化して行くだけで、熱くなっているバイブレーション自体は、いつの時代も同じ状態。その神々しさみたいなものは、絶対に忘れちゃいけないと思います。
物づくりとコミュニケーション
西川 僕らの世代は、バブル経済の最後くらいで、少ししたら景気もがくんと落ちてしまって、みんなに余裕がなくなったり、若い人も遊ばなくなったりしてきた。花生けもそうだと思うんだけど、物をつくるというのは、芝居があったり、音楽があったり、いろんなことをして、焼き物しかやってないようでもその中にはいろんなことの経験があって成り立っている。そういうことをやっている子はやっているんだけど、一般的に若い子はまじめだからそういう意味でいろんなことに手を出していなくて、幅の狭さみたいなものを感じます。でも、他の分野の人たちと集団を組んで何かをやるということは得意。
僕らは集団を組まなかった。仲間を組んで何かやろうというのは、どうせうまくいかないからというのもあって、みんなそれぞれが成り立つまでは難しいと感じていましたから。それがこの年齢になってみて、やっとできるような感じがします。これからは僕らの世代もいろいろ面白いことができればいいなと期待しています。
上野 これくらいのタイミングから、ようやく人と組むことができるようになるんだと思います。直接の人間同士のコミュニケーションに対して、これ以上は交われないところもあると思いつつ、でもそのことがすごく重要なことだということもわかっている年代ですよね。若い人たちは、直接のコミュニケーションがなくても、社会の中で生きて行くバランスが整ってしまっている。
それは全然いいことではないけど、たとえば気に入らないって言ったらどこかに訴えれば、直接会って気に入らないんですけどどうしましょうかみたいな話をしなくても、遠回しに第三者が解決してくれるような社会になっている。直接コミュニケーションをとることが最初でなくても、生きて行ける社会になってしまっている。
西川 本来のコミュニケーションでは、本音で話すとか、怒っていることをちゃんと相手に伝えるとか、それで関係が悪くなろうがそれは次の段階であって、その時にそういう話をすればいいわけで。若い時は特にそうなんだけど、今はそこを外しますね。本来のコミュニケーションをとらないと、本当はこういう世界ってなかなか発展して行かないと思います。
上野 その辺が、西川さんの素っ裸で地球の上に立てるかどうかということにつながりますよね。コミュニケーションのスタートというのは、目の前にいる人と同じ状態で対話できるかどうか、関係性を持てるかどうかっていうことでもある。その間に、電気的な信号で文字みたいなものを送ってコミュニケーションをとるようなものは介在しないわけで。
やっぱりゼロ地点がどこにあるのかということを考えたら、直接のコミュニケーションのないところでうまいことやっていても、大したことにならないというのが見えてくると思う。大事なことは、素っ裸で立っていること、それ自体に価値があるんだということ。そういう価値観がまず芽生えてなければ。
西川 気付かないとですね。
上野 そう、ぶつからないとだめですよ。痛い目にあって、それで痛みを感じるわけで。そうしたら人が痛いのもわかるようになるし、ぶつからないことには何も生まれてこない。
西川 リスクを回避することが、すごく価値の高い社会になってきているから、リスクを負うことの持つ重要性が、どこか抜け落ちてしまっている。リスクを負わないと強く生きられないし、次のステップに上がれないということは、みんな感じているんだろうけど、どうしてもリスク回避みたいな方向へ流れやすい。
上野 集団を組む方向に行っているというのも、いわゆるリスク分散型ですよね。
西川 一人でリスクを負わなくていいから。
上野 そういうバランスとかロジックで動いている間は、結局は本質に気付けないですよね。途中で大きなパラドックスにぶち当たるわけで。それに気付いて戻れなければ、ごまかし続けて生きるしかない。それは不幸なんじゃないかな。