Interview 升 たか「苔むさない生き方、描き方」 後編 2/4
聞き手:広瀬一郎さん(「桃居」オーナー) / 文・構成:竹内典子 / Jul. 2014
経済と社会と装飾性
升 焼き物だけに限らず、経済の及ぼす影響というのはすごく大きいですよね。バブルがはじけ、リーマンショックがあり、3.11のような出来事が起こり、いろいろなアップダウンがあったことで、焼き物についていえば、つい最近までシェイプだけのできるだけそぎ落とした形というのが、いちばんリアルに人の気持ちに届いていたと思います。あまり色がたくさんあって紋様が賑やかしいものは、何となく自分の生活の中にリアルに入り込んでほしくないし、もっと禁欲的な仕事の方がしっくりくると。それは当然あったと思うんです。
広瀬 そうですね。
升 過去の日本の歴史を振り返ってみても、桃山の時代は、豊かになって大きな権力の中で平和が維持されると、人々はお祭り的な気分になったり、集って賑やかに食べたり遊んだりして、そこに登場する器というのは紋様があったり、装飾があったり、そういう華やかなものが求められたわけです。紋様や装飾というのは、ある時は引っ込み、すごく禁欲的な仕事が増えるけれど、またある時は賑やかさが前面に出て来る。必ずその時代や経済の要求に従っていて、その繰り返しなのだと思います。
広瀬 そういう意味でも、そろそろもっと新しい装飾に挑戦するようなつくり手が出て来てもいいかなと思いますし、そういう気配も多少ここにきて出てきました。升さんご自身は、いまがそういう時代であると意識されているのですか。
升 僕の絵柄がどうなのかというと、あんまりそこまで考えていないし、考えて描けるものでもないので、ただ自分の好きなものを自分の手で描き続けているだけという感じです。やはり自分が描けるもの、描いていて楽しいもの、非常に個人的な仕事として紋様を描いていて、それを支持して楽しんでくれている人がいるということです。外側から自分を分析すると、たぶん時代とも合っていないし、今はこういう時代だからこういう紋様ですと自分で提出している紋様でもないなと思います。もし、ちゃんとそういうものを考えて、リサーチして提出するとしたら、もっと違うものにしたいですし。
広瀬 でも、マーケティングされて、この時代はこういう紋様を必要としていますという形で展開されている紋様というのは、ある意味で世の中に反乱していますよね。そうではなくて、升さんの紋様にみんなが惹かれて集まってくる、その吸引力の元って何なのかなというと、たとえば直径わずか数センチの小皿や蓋物の中に、ギュッと詰め込まれている升さんの「これ好き」「これ描きたい」というところ。オーバークオリティというか「なぜここまで描き込んでしまうのですか」というような稠密(ちゅうみつ)*9な描き方が持っている人を巻き込んでいく力というか。ある種の不思議な気分の中で、人が酔わされるものがあるでしょうし、マーケット分析してマーケッターの人たちが繰り出してくる紋様とは、まったく違うリアリティがあるような気がします。
升 なるほど。
広瀬 人間が二つの手だけで物をつくっていく世界が、大量生産の世界とは別にあるとして、そこに意味を求めるとすると、それはつくり手の二つの手が紡ぎ出して行く密度の高い物語というか、その物語性みたいなものなのかなと。
升 自分ではあまり物語って描いてはいないのですけれど。
広瀬 受け手が勝手に思うということですよね。そこが生活的な工芸の面白さで、つくり手が一方通行的に何かを与えるのではなくて、使い手の方がそれにエンカウンターしながら物語を紡ぎ出して行くというような運動性。そういう余地が、升さんのつくる絵柄の中にあるのではないですかね。
日本は使い手が物語を紡ぎ出す
升 ひっくり返して考えてみたら、簡素な削ぎ落した仕事というのは、相手に白紙の本を渡しているようなもので、それを開いた人は、そこに自分でイメージして絵を描き、物語を紡がなければ絵本として成り立たない。僕の仕事の場合は、たぶん絵は描いてあるけれどコピーがない。受け取った人はその絵を見ながら自分でコピーを書いて物語を紡いでいく。極端に言うと、物語のない白紙の絵本と、絵だけ描いてある絵本があって、対照的だけれども、絵が描いてあるか、白紙かという違いだけで、そこに共通するのは「物語」。そして、この物語を必要とするのは、日本人特有のことでしょうね。僕は昨年数ヶ月間バリに滞在し、外から日本を見てつくづく思いました。この感覚というのは、日本人固有の性癖というか文化というか民族性みたいなものだなと。
広瀬 物語を紡ぎだしてしまう特殊な能力というのは、そのルーツは何か。永遠にどこまでも遡れるでしょうけれど、自分の仕事に近い焼き物に限って言うと、やっぱりお茶の世界だと思います。お茶の世界はそれぞれ単独に、「これは○○のお茶碗です」「○○のお茶入れです」「○○の掛け軸です」というように銘々に作者はいて、すでに作者による物語がそれぞれにある。けれども、お茶事を主催する人は、それとは別に、物語を自分なりに編集して茶席をつくり、今日のお茶事のテーマはこれですというものを決めて、それに合わせて道具を取り合わせ、空間を構成するわけです。それはいま、升さんのおっしゃったこととも通じますね。
升 そうです。結局、そこにたどり着きます。四百年前の千利休の時から、日本人の物に対する感じ方、考え方、あるいは受け入れ方というのは、大きく変わったという気がしますね。それは焼き物に限らずですが。
広瀬 お茶事というと、我々にとっては縁遠い世界のようにも思えるけれど、でも、日本人が普通の暮らしの中で、いろいろと食器を買ってきて自分なりにコーディネートして楽しむというのも同じことですよね。それはヨーロッパにも他の日本以外のアジアにもあまり見かけられないことです。
升 単に取り合わせとか、コーディネートというのは外国にもありますけれど、そこに「想い」とか「物語」はないです。想いがそこに加わって、その想いの方に重点を置く文化というのは、やはり茶の湯から始まっていて、それが茶道をやったことがなくても、普通の暮らしの食事や道具にまで及んでいる。それ以前の日本は、物は物でしかなかったし、工芸は工芸でしかなかったわけで、想いはそこの中に加わっていなくて、もっとあっけらかんとした物質的な価値観だけで通っていたと思います。利休の時代から日本人は大きく変わって、たかだか何百年しか経っていないのにこれだけ頑固にあるわけです。ただ、この感覚はグローバルスタンダードにはなかなかなり得ないものでしょうね。
広瀬 逆に言えば、特殊な文化であり、極めてローカライズされたものであるがゆえに、たとえば諸外国に文化輸出すると、それを面白がってもらえるという面もあるのではないですか。彼らにとっては自分たちの文化にはないものだから、人間は自分の中にないものを面白がるという性癖もありますから。もちろんそのまますんなりと向こうに受け入れられるかとか、輸出財としてこれからどれだけ外貨を稼げるかというと、いろんな疑問符が付きますけれど、間違いなく彼らは面白がるとは思うんです。
升 一部しか理解できないかもしれないけれど、面白いとは思ってくれますね。一つのカルチャーとして輸出できるけれど、我々のように普通の暮らしの中に彼らも受け入れるかというと、それは和食ほど浸透しないのではないでしょうか。
広瀬 漫画とかアニメ、フィギュアのような日本文化という形では難しいということですね。
升 そう思います。
広瀬 そこは次の世代の課題だと思っていて、何らかの形で向こう側の人に面白がってもらう、楽しんでもらうということは、ものすごくやりがいのある使命ではないでしょうか。
升 それはすごくありますね。寿司・和食文化もそうだったと思うけれども、日本の文化として先にフェイクなものが浸透していかなければ、本来の寿司や和食、日本の中でスタンダードとされているものは浸透していかない。スタンダードな物から最初に持って行っても、一部の人に知的なカルチャーとして受け入れられるだけです。あれだけ中華料理が世界に通用したというのは、きっと本格的なものより先に、その国に合わせたフェイクなものから浸透し馴染んでいったからでしょう。人々の口の中にチャイニーズというベースが行き渡った時に、本当のチャイニーズはこうだよというものがやっと登場できる。
広瀬 下から積んでいくということですね。
升 そうです、積んでいかないと。日本の和食もそうだろうし、日本の焼き物の面白さ、道具の物語性というものをグローバルなものにしていくには、かなりフェイクなものから入らないと。日本人から見たら「これは和食器ではない」というような「なんちゃって」的なものが、普通にヨーロッパなどで使われるようになった時に、やっと茶の湯の茶碗はこうですとか、日本人のふだん使っているものはこれですということが学習できると思うんです。でも、それには何百年かかるかという気がします。それだけ日本人にとっての食もそうだし、物に対するあるいは焼き物に対する楽しみ方、受け入れ方というのは特殊です。
広瀬 そうしたことを、バリで仕事をされてみて強く感じられたわけですね。