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夢みる玩具 photograph© Shigeki KUDO

馬の胴体と湾曲した揺すり板は木で出来ていて、胸部から臀部にかけての量感は結構写実的であるのに、頭部と脚、尾は薄手の金属製で、横から見た時の馬らしいシルエットに比べて正面性はあまりにも平板なのである。それでバランスが不自然かというと、そのようなことはなく,馬を前後に揺すりながら横から見ていると、草原を駆け抜ける雄壮な名馬に見えてくる。この馬はモンゴルのアンティークで、その動きから考えると置物というよりは、子供に与えられた玩具ではないだろうか。

対して木製の牛はベトナムのアンティークで、台座の上に単純化はされているが特徴をよく捉えた牛の彫り物が据えられてある。全体に塗られた朱漆は大切に使われたことを物語るかのように、所々すり切れながらも優しい風合いを出している。台座には横に貫通した穴が二つと、前部にも縦に穴が一つあけられている。横穴には車軸を通して車輪をつけ、縦穴には紐を通して牛の乗った台車を曵いて遊ぶ、こちらも玩具であったと想像できる。

騎馬民族の血統を持つモンゴルにおける馬も、水耕文化のシンボルのようなベトナムの牛も、単に身近な動物であったというだけではなく、それぞれの民族の生活や生業の中で人の何倍も仕事をこなす重要な労働力であり、大切な家族の一員であり、昔からずっと続いてきた生活文化を象徴する存在であったに違いない。

かつて玩具作りは専門職があったのではなく、農具や牛馬具、つまりその社会の生業のための道具を作る者が携わっていたと考えられる。誰々の子の何歳のお祝いにこんなモノをつくって欲しいなど、その生業に実感を持っている作り手が顔の見えている相手に気持ちを込めて作ったり、あるいは生活用具をある程度自分で製作していたと考えると、親が子共に作り与えていたかも知れない。以前に著名な彫刻家が自分の子供のために作った玩具の写真集を見たことがあるが、どの玩具も子供たちに自らの思いを語りかけているようですばらしいと思った記憶がある。

そう考えるとかつて子供に与えられた玩具というものは、単に子供を喜ばせるものではなく、楽しさを通してその社会において何が大切かを体感させ、やがてその社会の一員として未来に夢を託して、立派に育つことを願って贈られた祈りの造形だったのではないだろうか。

現代においては玩具というとコンピューターゲームが占める割合が非常に大きいだろう。1980年ごろから子供たちに贈られ始めるコンピューターゲームであるが、折しもIT時代到来を予見し、せめて子供たちには自分が感じた苦労をさせないようにという親の気持ちも後押しして、種々の批判がありながらも、爆発的にヒットし、以降玩具として定着していくのである。このコンピューターゲームも子供たちがIT社会に違和感なく馴染んで社会の一員になることを願って贈られるものならば、それは一つの祈りの形なのかも知れない。しかし、IT社会という概念自体の歴史が浅く、まだ漠然として不確実な実感しかつかめないでいるのは私だけであろうか。

時代や環境、社会のシステムが違うので一概に玩具の今昔を比べて善し悪しを述べることに意味はないが、これから長いときを経たあと、コンピューターゲームの器機を部屋に飾って遠い昔を夢みることは無いであろうと思うのである。

工藤茂喜