夜明けの光がつくり出すモノクロームの情景
昼間の日差しによる窓からの逆光
黄昏時にのびた長い影は夕闇へと消え、やがて部屋の中は暖かい光に包まれる
光が生み出す陰影は、空間に驚くほど豊かな表情をもたらします。
快適と言うものを人工の力でコントロールする割合が増えるにつれて、
わたしたちは、季節や一日の時間の移り変わりから、
小さな感動を受ける機会が少なくなってきたように思われます。
そんな現代の生活空間の中で、このテーブルは
形がもたらす陰影によって移ろいゆく光を感じるために、
いわば情感をよみとる日時計のような「装置」として提案してみました。
この文章は「移ろいゆく光を感じるためのテーブル」(1997年製作)という木製のテーブルの展示のために書かれたキャプションである。それから14年、日本は深刻な災害に見舞われ、その対策として市街地でも節電が実施された。
この状況の中で改めて考えてみると、最近の住宅や市街地は自分が子供だった頃に比べるとずいぶんと明るくなった。戦後から高度成長期をへて現在に至るまで、生活の貧困や文化の無明を「闇」に象徴させて、どんどん照らし続けてきたからである。
「一寸先は闇」とか「日陰もの」などの日常語からも判るように、闇や陰はマイノリティーなイメージで、禍々しい物の温床のように扱われて来た。事実、防犯上や交通安全上でも夜の辻は明るい方が良いし、衛生や効率の観点からも仕事場や住宅が明るい事がより良い生活条件である。あの頃「明る~い◯◯◯◯◯」と社名の前に「明るい」と付けた宣伝が街中に流れ、過去に背を向けるように国民全体が富裕を目指したのである。それは成長期における自然な流れでもあった。
やがて至る所で蛍光灯が部屋中を均一に照らしだすと、確かに作業効率は上がったが、自然光から読み取る時間感覚を脆弱にさせ、窓から入る日差しの長短や、風の向きや匂いで感じる季節感覚を、空調の均一な風が鈍化させていった。文化的生活を享受してきた替わりに失いつつあるこの感覚を、五感をフルに使ってもう一度感じ直してはどうだろう。
家々が立て込む街中の部屋でも、北向きの窓からは隣家の壁の反射光が優しい光となって射し込み、電灯を消した空間では夕闇までの間に美しい白黒写真のような風景が出現し、感覚が研ぎ澄まされる。節電と言う名目で制限させられると思うのではなく、優しく美しい空間を体現するために電燈のスイッチを自ら切るのである。そんな情緒的な感覚への転換が、エネルギーの問題にも係っていくのではないだろか。
古来から日本人は、夕闇がせまる中ですれ違おうとする人影に対して「誰ぞ彼(たぞかれ=誰だろう彼は)」という不安を倒置のかたちに込めた心情表現から、「黄昏(たそがれ)」という時間を表す美しい言葉をつくり出す、繊細な感覚の持ち主なのだから。