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扉の向こう側~ドゴン族のこと photograph© Shigeki KUDO

ドゴン族(Dogon)を調べると、現在のマリ共和国、ニジェール川流域に面したバンディアガラの断崖に居住する先住民族で人口は約25万人と出てくる。キリスト教やイスラム教圏に組せず独自の文化を今に残し、60年に1度行われる祭事などが有名であるが、押し寄せる観光客や貨幣経済の影響で、その精神文化の存続が危ぶまれているという。

この扉は「ドゴン族の扉」と言って、彼らの居住地区にある穀物倉庫の扉である。倉庫と言っても手作りの土蔵でどれ一つ同じ物はない。植物で葺いた屋根と共に全景を見ると、擬人化した妖怪かなにかを粘土で作って、菅笠を被せて羅列したようで、おどけた感じが人懐っこくも見えるが、これが全て実用のために作られた造形であることを思うといささか驚嘆を禁じ得ない。作業性と生産効率を考えないとこんなに面白い形ができるのかと思える程、自由な造形なのである。おなじ形の窓を開けておけば一つの扉の規格で量産できてコストが下がるというような考えは彼らの中には初めからないので、全てがオリジナルなのだが、村全体では統一感があるデザインということは、昔は共通の精神性や宗教観が生活に息づいていたのだろう。このように建造物でありながらほとんど直線を持たないデザインは、泥作りの構造の骨格に製材していない自然木材を使っているためと考えられるが、そうやって出来た土蔵の扉も、直線的な精度はまったくないにもかかわらず、極端に大きな隙間がある訳ではない。自然な形をしていながら隙間のない古代の石組みを見るようである。木材をすり合わせて削るのか、自然木材の曲線同士をうまくあわせて作るのかは判らないが、二重窓になっていて、和釘のような手製の釘を使い、留め具まで木でつくられたこの扉は、穀物の出し入れの他にも湿度調整などの機能を十分に持っているのだろう。

厳しい気候による風化も手伝ってか流木のような肌合いでいて実用精度を持った、この用の造形を見ていると、先進国と言われる国のデザイン性とは逆の立ち位置を感じる。空力抵抗の削減による燃費の向上や、部材の汎用性や軽量化で経済効率を優先させる自動車や、低賃金国で量産することによりコストダウンを計ろうとする家電などのデザインは、裕福そうな体裁は整ってはいるが、なにかこう愛しづらい気がしてならない。

もう一つの問題はこの「ドゴン族の扉」は先進国の人間が二束三文で買い漁り、海外で民芸として売買され本国にはほとんどなくなってしまったということである。このことについては私も加担してしまったのだが、売って生活の糧にしてしまう彼らにとってこれらの扉は生活用具の一部であるのみで、美術的価値や歴史的価値は一切意識しないのだろう。国に於いても人に於いても投機価値が高い物をより多く所有することをステイタスとする考えもあるが、誰が所有しようと良い物は選びとられて残って行けばそれで良いという考えも、また一方であるのかも知れない。民族文化破壊に加担してしまったものの言い訳だろうか。

そして、売り払ってしまった扉のそのあとは、建築廃材から拾われてきたアルミサッシなどが組み込まれていると言うのだ。そんな話を聞くと、このサッシが百年、二百年と時間を経た時、アルミ材は風化と酸化で原形をとどめない程変形して土蔵に寄り添い、ガラスは表面のカビと傷からくる白濁が古代の勾玉のようになっているという想像をすることは、むしろ愉快な気がする。芸術的な価値を考えるものは所有や保持はしても造り手ではない。時間をかけて造り出す側は、存外、芸術などは無縁に日々を過ごしているのかも知れない。

未来のドゴン族の人々は穀物倉庫の扉の向こう側にどんな風景を見るのであろうか。

工藤茂喜