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愛しのミシン photograph© Shigeki KUDO

父親の家業がハンドバックの製造業であった関係で、私が物心がついた頃、家には何台かのミシンがあった。5人家族でも狭い家であったが、一時は住み込みの見習い職人を2人もおいていて、仕事や食事、就寝にごった返した空間で私は育った。見習いの職人とは、縁故関係から預かった中学を卒業したばかりの師弟で、彼らは一人前に仕事をこなせるようになるまで住み込みで働いており、仕事の合間によく遊んでもらった。

今考えるとよくこんな狭い空間に男女の区別なく暮らしていたと思うが、プライベートという言葉は当時はなく、昭和30年代はそんな時代であった。

仕事の流れでみんな忙しくなると、子供にはかまっていられなくなり、そんなとき私は空いているミシンに首っ引きになった。当時家にあったミシンはみな足踏み式で、大して危険がないためか、熱中しておとなしくなった私はまわりの大人から放って置かれた。ボビンやボビンケース、糸目を調節するネジや、アームを上げるレバーなど、めくるめく精巧な部品の集合体であるミシンは子供の好奇心を何時間でも満足させた。子供というものは、年齢に合わせて作られた専用の玩具よりも、実用的に作られた精緻な機械の方にはるかに興味をもつのもである。日長一日いじくり回したミシンであるが、また何日かすると初めてミシンに触るかのように静かに熱中するのである。そんな日々がしばらく続き、最初は糸を装着しない空ミシンで紙に縦横のミシン目を抜いて、そこから切り取る券のような物を作って遊んでいたが、小学校に上がる頃には主糸と同じ糸をボビンに巻き取り、曲がりなりにも2枚の布を縫い合わせることができるようになった。小学校の高学年になると家庭科の授業にミシンの実習があって私はみんなの前で甚だ褒められた。しかし当時男の子は家庭科の授業は嫌々やるのが流儀で、褒められたことが恥ずかしくて、提出した作品はわざとへたくそに縫った。その時の女の先生の悲しそうな面持ちを今でも忘れられない。

今我が家にあるミシンは、そんなミシンの1台で、父親から譲り受けた。家庭用のミシンであるため、黒い流麗な形のボディーには唐草の縁取りやメーカーの飾り文字が金色で描かれていたり、メンテナンス用の裏蓋にさえ彫金細工のような花模様が施されたりしている。ミシンの頭が格納されるようになっている台の脚に至っては網模様の鋳造製で曲線が見事に活かされていて、現代の物ではあり得ないような装飾密度なのである。当時の日本にはないあこがれのデザインで、家にこのミシンを置くことが一つのステータスだったのだろう。

このミシンを現役で使えるように調整して下さった業者の方のお話では、この年代の足踏み式ミシンは動かなくなっていても、部品を分解して錆をとり注油してあげればほとんど復活するという。それは部品の素材や精度がよく、駆動に人力を使っているために機械の摩耗度も少ないためらしい。

この後、ミシンも電動化されていき、世の中は高速の時代に入ってゆくのである。 今も裾上げくらいであれば自分でするので、普段はPC用のテーブルに使っているミシン台からトランスフォーマーよろしく格納されていたミシンの頭を起こし出す。そんな時、かすかなミシン油のにおいと共に古く懐かしい記憶が甦るのである。

工藤茂喜