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ひたむきな造形 photograph© Shigeki KUDO

組み合わされた大小2つの歯車の、大きい方に回すための握り手がついていて、1回転させると小さな歯車は6回転もしようか。歯車の台座はクランプ式に机に仮止めもできるが、ネジやボルトでしっかりと固定するための穴もあいている。高さ30cmくらいの鉄製の鋳物で、それなりに重いこの機械の用途を私は知らない。

スクラップの中からなんだろうと思って拾い上げ、錆を丁寧に落として、潤滑油をさしてみると見事に動くようになり、使い途がわからないこの機械は我が家の飾り物となった。

テーブルに取り付けて眺めていると、使途不明も手伝ってか、何とも興味が尽きない。何かの用向きで作られた物だから無駄な装飾はなく、単純な構造ではあるが、力強い存在感があり、時々回してみたりすると、動く彫刻のように感じられる。用に徹して、無駄や流行を省いたその造形に、ひたむきさを感じ、少しづつ好感と愛着がわいてくる。

道具を道具として作り続けていると形など気にならないのかも知れないが、彫刻のように展示されたこの機械を見ていると、作り手の仕事ぶりのひたむきさが現れているように感じる。鋳込み、仕上げ、塗装、組み立てに係わった職人はハンドルを1回転させる人の力を別の力にスムーズに変換する事にのみ意識を集中させ、1日に何台かを日々黙々と作り続けたに違いない。そんなひたむきな気持ちが出来上がった製品に宿り、ある種の魅力を醸し出すように思える。ほとんどの工程をライン上で機械生産するものにはなかなか見られない魅力である。

ここまで書くとなんだか美術工芸作品よりも用の道具や機械の方が魅力的であるような誤解を招くが、美術工芸作品にこそひたむきさは大事なのではないか。色や形、素材、質感などに対してひたむきに精進し続ける意識が、見て呉れに現れた時、初めて使い手に魅力が伝わるのではないだろうか。

古今の茶人や目利きの蒐集家も、一片の陶片や必然から生まれた古道具の中にひたむきな造形を感じ取り、茶道具や美術品に見立ててきたのかも知れない。

工藤茂喜