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複眼と見立て photograph© Shigeki KUDO

空に浮く雲がソフトクリームに見えたり、最近はあまり見かけなくなったが、和室の天井の節穴が怪物の目に見えたりするという話は幼児期の体験としてよく聞く話である。これは、空腹や怯える気持ちが作り出す錯覚ではあるが、古代においてはこの要素が空想力と結びついて、アミニズムやシャーマニズムの原形をつくり出したとも言われている。

ここに動物の形をした鉄のオブジェがある。と説明するとどこかの部族の祭器に見えてきそうだが、知っている人が見れば「アンビル」という金床の一種で金属加工の道具という事がすぐにわかる。上面の平らな部分は上盤として金属を打ち延べてゆくのに使い、胴体の穴は金属の棒などを曲げる時の固定具としてつかわれ、先端の突き出した部分は馬蹄のような形を形成する時に使ったり、また反対側はハンドルを回転させて物を締め抑える「万力」になっていて、プロユースというよりは、趣味でする仕事には一台で何役もこなす便利な金工道具でなのである。そういった使途で製作された道具ではあるが、3~40年もたち次第に使われなくなると、表面に錆も吹き、角も丸まり、精度も甘くなってきて、眺めているとどことなく哀愁のある、ゆっくりとした動きの動物にも見えてくる。

一つの事物に本来以外の性質を見立てる想像力は物心がつく頃から現れ、やがて考え方が理論的になり統制されてくると消えてゆく。消滅するまでの期間は個人差はあるが、一般に感受性の強い人程長いといわれている。この社会的にみると非合理的な見方や空想力が、実は美術や文学などの芸術、ひいては信仰心の生まれる源泉なのではないかと思えてならない。闇の中の妖怪を畏れ、自然の草木の中の妖精に驚き、雨後の晴れていく空に明るい未来を感じるのである。この感覚を幼児期に一時的に生ずるものと見過ごさずに育んでいったとき、科学的な見方と感覚的な見方の複眼を得て、物事の見方や感じ方に多様性を見出す目と心を養うのではないだろうか。無機的な物にも心情を感ずる事の出来る「見立て」の発芽である。

さて前述の「アンビル」であるが、我が家では時々作品の展示台に使わせてもらう。写真の作品は村本慎吾の「枝羽 No.31」。この展示を子供心で名付けさせてもらえば「雲を曵く牛」だろうか。美術は自分で造らなくても組み合わせの妙で楽しめるところがいい。

工藤茂喜