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Interview 小倉充子 文・構成:峯岸弓子

江戸を染める

糊置したその小さな布。
何か知らなかったけど、
キリッとして、
カッコよく見えた。
インタビュー風景

——
講義で習ったのも友禅、卒業制作も友禅、それでも型染に?

小倉
教室の隅に型で糊置きしたハンカチほどの大きさの布があったんです。伸子(しんし)張り※1した布に糊が置いてあるだけなんですけど、それが何なのか当時の私にはわからなかった。でも、その小さな茶色っぽい布がキリッとしてすごくカッコ良く見えたのです。心の奥にずっと、「あれをやってみたい!」という憧れがありました。ただ、当時は一つ前の学年で型染の特別講義は終了していたんです。

——
というと大学院では……?

小倉
場所を借りて勝手に独学している感じでしたね(笑)。とっかかりも何もなかったので、最初は本を見ながらステンシルみたいなものをつくっていました。大学院の修了制作では、自力で型染のタペストリーをつくったんですが、なんと、後に私の師匠となる人がそれを見ていたんですよ! 弟子入りして何年かした時、それが私の作品だと知った師匠から、「アレあんたのだったのか? ひどいことしてるなあ、って思ったよ」って言われました(笑)。それくらい当時の私の型染は独学だったんです。

——
その方が江戸型染の作家、西耕三郎氏ですね。たしか、同級生に西さんの息子さんがいて、工場を訪ねたのがきっかけとか……。

小倉
大学院を卒業した春、「工場を壊すから最後に見においで」と声をかけられ、訪ねたのがきっかけでした。「ついに見つけた!」という感じでしたね。自分にとって、この人が師匠だとすぐにわかりました。西先生は職人というよりは作家。美術学校に行っていたこともあり、どちらかというと絵描きになりたかった人。家はもともと江戸更紗をやっていた染工場で、そのための型紙も多くありました。おかげで広い意味の型染を知ることが出来たし、最低限のレベルではあるけど、一通りの工程を教わることができたんです。

——
西先生の工場も壊すということでしたが、当時から型染を教えてもらえる場所は少なかったということですね。伝統工芸の世界はほとんどが分業制で成り立っていて、型染の場合も染める人と型を彫る人は違う。その両方の数が減っていたということですか?

小倉
バブルで世の中が経済成長するのと反比例するように、そうした伝統工芸はますます廃れていきましたから。当時は一番ひどい時期だったのかもしれません。型染の場合、図案をもとに型紙を彫るのは型屋であり、その型紙を使って生地に染めるのは染屋。さらには、生地、晒し、染料、刷毛など、材料や道具を製造するところも含め、全ての職人さんが少なくなっていますね。

——
そうした中で西先生に弟子入りできたのは幸運でしたね。工場を訪ねて、どんなところに一番心を惹かれましたか?

小倉
まず、山積みされた古い型紙に圧倒されました。江戸時代の本物のデザインに初めて巡り合った感じです。木造の古い工場で、天井には7メートル程の長板※2がずらりと並んでいる。そういう場所で職人さん達が仕事をしているところを見たのですが、そのカッコよさにすっかりやられちゃった(笑)。

——
西先生には型彫りや染め以外に、図案についても教わったんですか?

小倉
一番教わったのは構図の妙。着物の図案というのは案外イメージするのが難しいものなのです。たとえば、単体で絵を描いて着物にレイアウトして見せに行くと、それを見て先生が絵を置き直すんですね。先生が手を加えると、あっ、という間に絵が図案になる。間ひとつでガラッと印象が変わるんです。その魔法のようなワザは鳥肌がたつほど素晴らしかった。当時の私にはまだ意識出来なかったのですが、先生の構図は、着物を着た時にどうなるかまで計算されていました。

江戸時代の古い型紙、
ずらりと並んだ長板、
そこで仕事する職人達。
圧倒的な光景でした。

※1:伸子張り
細い竹の棒(伸子)に付いた針で布の両端を留め、ピンと張ること

※2:長板
板の表から裏へ折り返して一反の布を貼り、型付けするための一枚板